2021年8月19日木曜日

マタイによる福音書6章25~34節

 大変よく知られたイエス様のみ言葉です。6章のまとめとして、神さまを父として信じて生きる私たちに、神の国と神の義を求める生き方を勧めておられます。このイエス様のみ言葉を行っていくところに神の国の恵みが与えられていきます。「行っていく」というのは、当に文字通り「行う」ということです。ここでイエス様は「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい」、と言われています。神の国の恵みを真にご存知であり、神の義を教え、実現される救い主であるイエス様が「しなさい」と言われていることを、まずやってみることです。イエス様が「空の鳥をよく見なさい」と言われたみ言葉を思い出したら、見上げて鳥を探すのです。「野の花を注意して見なさい」と言われたから、足を止めて野の花を見つめるのです。イエス様が教えてくださったようにしてみることから神の国に生きる現実は始まるのです。神の国と神の義を求めるとはそういうことです。父なる神を信じ、イエス様を信じて、やってみなさいと勧められることを「やってみる」ことです。一体それが何の意味があるのか、どういう理屈で思い悩むことから私たちを解放してくれるのか、と考えはします。でも実行しないのです。たかだか数十年の人生経験から分かったつもりで永遠の神の愛を見損なって歩いているのです。まず、やってみてください。それが信じて生きるということです。そうしたら、「みな加えて与えられる」、とイエス様は断言しておられるのです。

2018819日)

マタイによる福音書6章24節

 わずか1節のみ言葉ですが、時代ごとに多彩な解釈をされてきた箇所です。ここで言われている「富」はそのまま「お金」のことです。神さまとお金に同時に仕えることはできない、と教えられていることは明らかです。お金というのは更に、神さまでない被造物ということですから、神さまと偶像に同時に仕える(信じる)ことはできないということでもあります。しかし、私たちは同時に仕えるような生き方をしているなあ、と自分の生き方を振り返って思うのではないでしょうか。実はその主人を選べると思っている感覚こそが「大間違い」なのです。「仕える」とは当時の理解では奴隷として仕えるということです。奴隷は主人を選べません。報いは自分の所有者である主人からのみいただきます。私たちは神か富かどちらかに所有されているということです。どちらかを選ぶ力など私たちにはないのです。そして、ここで主イエスが伝えたいのは、私たちは「富」という言葉で代表される被造物を主人として仕えているのではなく、神さまに所有されているのだということです。神さまは御心をもって私たちを「救う」と決断してくださり、ご自身の独り子イエス・キリストを十字架で代価として支払って私たちを罪と悪と滅びからご自身の所有としてくださいました。しかも神さまは、私たちを奴隷ではなく自由な「子」として迎えてくださいました。父なる神に親しんで仕え、父なる神から豊かな報いをいただいて生きるのが信仰者なのです。

2018812日)

マタイによる福音書6章22~23節

 「あなたがたの中にある光」、これは神さまからいただく光です。澄んでいる目とは、「まっすぐに見る」ということです。脇目をふらずに本当に必要なもの、欲しいものに目を向けている、そんな眼差しを「澄んでいる目」と言われています。何を見つめているのでしょうか。それは、神さまの報いです。これまでイエス様は、施し、祈り、断食という信仰の行いの大事な要点は、「誰からの報いを求めているのか」であることを教えられました。信仰の行いは神さまにご覧いただくだけでよい行いです。神さまに向かって願い求めていながら、手は人の方に差し出して称賛を受け取ろうというのはおかしな話です。本当に求めている大きな恵み、幸いや赦しは神さまからいただくものです。神さまこそが私たちの全身を明るくするまことの光を与えてくださる天の父です。そのことを信じて、まっすぐに神さまを見つめる眼差しが「澄んでいる目」です。この目で神さまの愛と恵みを見つめるとき、恵みの光が私たちのうちに「信仰」の火を灯します。この光をいただいて私たちは全身を明るくするのです。恵みの光の源である神さまから目を反らして見るのは、罪に支配された暗さです。そこに私たちを明るくする光はありません。そこで与えられる世の報いは私たちの内の光を消し去ろうとします。神さまに救いの希望があります。私たちは神さまから光をいただいて全身を明るくし、私たち自身が恵みの光を携え世を照らすのです。

201885日)

マタイによる福音書6章19~21節

 イエス様は天に富を積みなさいと言われました。この「富」とは私たちが命を預けることができる頼りとするものです。ある人にはお金かもしれません。才能かもしれません。愛情や友情といった人との交流かもしれません。それらは大切です。しかし地上に積まれる富の特徴は、虫が食ったり、さびたり、盗まれたりすることです。言い換えるならば永遠ではないということです。永遠ではないので、私たちがどんなに頑張って保とうとしても、本当に必要とした時に失われているかもしれないのです。それでは天に積む富とは何でしょうか。献金でしょうか。良い行いでしょうか。徳でしょうか。天における富は、地上の富と異なり「永遠」のものです。失われないことに特徴があります。例えば徳ということで、「赦し」についてイエス様は熱心に教えてくださいました。しかし、その中でイエス様が言われたのは、神さまが私たちを赦してくださることに比べたら、私たちの赦しの何と小さいことか。むしろ、神さまの赦しの大きさを知ったならば、赦すことは富ではなく、当たり前のことに過ぎない、ということでした。ここに天に積まれる富が何であるかを知る手掛かりがあります。献金も、善行も、徳も、私たちに救いの命を与える力のある永遠のものではありません。しかし、罪びとの私たちを赦し、受け入れ、永遠に愛してくださる方、永遠の命をもって迎えてくださる方がおられます。すなわち天の父である神さまです。この方ご自身が天の富として私たちをお支えくださるのです。

2018722日)

マタイによる福音書6章16~18節

 「施し」、「祈り」に続いてイエス様が教えられたのは「断食」についてです。「施し・祈り・断食」はユダヤの人々が大切にする信仰の行いでした。イエス様は断食を否定はされませんでしたが、断食についての致命的な間違いを指摘なさいました。断食は、本来悔い改めの行為でした。そのため、苦しい顔をすればそれだけ真剣に悔い改めに集中していると他人に思ってもらえます。敬虔な信仰者だと評価してもらえます。そこに、致命的な間違いがありました。悔い改めで求めているのは神さまからの赦しであって、人の評価ではありません。人の評価を得て、肝心の神さまの赦しを受け損ねてしまったら本末転倒です。だから他の全てに背を向けて、ただ神さまに集中することが最も大切なことになります。神さまを父と呼ぶ私たちにとって、罪の赦しをその憐れみと愛をもって豊かにいただく悔い改めは、苦痛どころか、罪から解き放たれる喜びの時なのです。だからイエス様は、むしろ喜びを表す身支度をするべきだと教えられました。父なる神さまは、私たちの罪を赦してくださるために独り子であるイエス様を与えてくださいました。イエス様の弟子として神さまを父と呼ぶ者は、イエス様を迎えて、罪の赦しの恵みをいただいています。イエス様と弟子たちは断食しませんでした。罪の赦しを与える救い主を迎え、喜びに満たされているので無理に断食をする必要はないのです。

2018715日)

マタイによる福音書6章14~15節

 主の祈りに続いてマタイ福音書は赦しについての御言葉を記しています。もし私たちが過ちを赦すなら、父(神)もお赦しになるが、もし赦さないなら、父(神)も赦さない、と言われます。多くのキリスト者が、まず神がキリストの十字架によって私たちの罪を赦してくださり、その赦しの恵みの中で私たちも隣人の過ちを赦そう、と理解しています。これは間違った理解ではありません。しかし「赦す」ことはキリスト者の努力目標ではありません。「赦すべき」責任があるのです。キリストの十字架によって父なる神から罪の赦しをいただいたキリスト者は赦さなければならないのです。キリスト者はこの世の誰よりも真剣に「赦し」に取り組むのです。罪を指摘すること、非難すること、評価することは、赦すことに比べたら簡単なことです。赦すことは難しく、目を背けておきたいですし、父なる神さまの前で見栄えのいい自分を見ていただきたいと思うかもしれません。しかしそれは祈りの姿勢としては不十分です。赦しは私と隣人の間だけで始まるのではありません。本当の赦しはそこに父なる神さまをお迎えして、祈りにおいて赦せない自分の心を神さまに知っていただき、父なる神さまと共に赦しを始めるのです。そのように父なる神を信頼することが祈る姿勢です。本当に難しいことであり、時に自分ではどうにもならない「赦し」の実現を父なる神と共に始めるのです。

201878日)

マタイによる福音書6章13節

 主イエスが教えてくださった祈りの最後は、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りです。私たちが普段祈っています主の祈りでは「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈っています。「誘惑」と「こころみ」は似ているようで、全く違うものです。「こころみ」は本来、父なる神が用意される私たちへの訓練のことです。ですから、合格、不合格を決めるものではありません。試みに失敗したように私たちが考えても神さまが私たちを見放すことはありません。神さまの試みは必ず私たちの信仰を成長させてくださいます。一方で「誘惑」は「悪い者」すなわち悪魔からの誘いです。父なる神さまから再び私たちを引き離し、罪の奴隷とする誘いのことです。これは恐ろしいものです。私たち人間の力では悪魔の誘惑に勝つことはできません。それほどに悪魔の誘惑は狡猾で強いのです。だからこそ、私たちはこの悪魔に勝つことのできる天の父に願うのです。もう二度と天の父を失うことのないように願うのです。悪魔の誘惑に負け、私たちが天の父に背を向けてしまうことがあっても。永遠に神さまは私たちの天の父であり続けてくださることを信じて祈るのです。神さまを天の父と信じることは、どんな誘惑にも揺らがない強靭な精神力を指すのではありません。むしろ本当に神さまなしでは弱い自分を知り、その自分を変わることなく愛し受け入れてくださる天の父なる神さまと共に生きることが信仰です。

2018617日)

マタイによる福音書6章12節

 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」この祈りが「主の祈り」の中心の祈願になります。主の祈りを教えてくださった直後にイエス様は赦しについて教え、18章には「七を七十倍するまで赦しなさい」と言われて「赦し」を教える譬え話を語ってくださっています。それほどにイエス様が重んじたことが「赦し、赦される」ということでした。「わたしたちの負い目を赦してください」とは、イエス様の十字架の罪の赦しの御業があって初めて願うことができることです。イエス様の十字架の贖いを信じて、父なる神さまに罪の赦しを求めるのです。もう一つの「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とは、私たちの罪が赦されるための交換条件ではありません。私たちの罪の赦しは全てイエス様の十字架によって与えられる救いにかかっています。これは、イエス様の救いをいただいて、神さまを「父」と呼ぶことができるようになった私たちが、神さまの子として、神さまの御心に適って生きる者となることを求める祈りです。私たちを神さまは「子」としてお迎えくださり、私たちの「父」となってくださいました。罪によって失われた神さまとの関係は新しく結ばれました。この神さまの愛を目標として、天の父の子として生きる姿が、「赦す」ことなのです。天の父に子として生きることを求めることがこの祈りの心です。

2018610日)

マタイによる福音書6章11節

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」この祈りから、主の祈りは後半の「わたしたちのため」の祈りとなると言われます。ここから始まる後半が私たちのための祈りだとすると、前半は何の祈りだったでしょうか。「神さまのため」の祈りというのは、おかしいでしょう。神さまこそが祈りを聴き、願いに良いものを与えてくださる方だからです。前半は、わたしたちにとって神さまが常に、「父なる神」として臨んでくださることを願う祈りです。前半の祈りに支えられて、後半の願いが成り立ちます。必要な糧とは、直接には「パン」のことです。本当に基本的な当たり前の食事です。こんな些細なことまで神さまにお願いするのかと思うかもしれません。しかし、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を与えてくださる神さまの「父」としての愛が無ければ私たちの「当たり前」は成り立たないのです。子が父に「お腹空いた!」と訴えるように、私たちは生活のどんなことも神さまを父と信頼して願います。その時、「今日」と祈りなさいと教えられます。明日の不安を抱えて、思い悩んで、明日のための備えを今日願うのではありません。また、今日を生きるのは、昨日貯えた「富」によるのでなく「今日与えてください」という祈りにお答えくださる父なる神によって生きるのです。しかも、これは「わたし」を生かすだけでなく、「わたしたち」、つまり隣人と共に生きることを願う祈りです。神の子にこそ許された大切な祈りなのです。

201863日)

マタイによる福音書6章10節b

 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」、と祈りなさいとイエス様は教えられました。「天」は御国のことです。神さまの支配の実現するところです。そこで、どんな神さまの御心が行われているのでしょうか。私たちが知っているのは、天において神さまは私たち罪人を救うと決意されたということです。それも一人も滅びないように。そして独り子であるイエスさまが地上にお生まれになりました。この神さまの決意が私たちの生きる世において実現することを祈るのです。クリスマスには天使たちが「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。この祈りは天使たちも共に祈っている祈りです。そして何より神の独り子イエスさまご自身がこの祈りを心を尽くして祈られました。十字架にかかられる前にゲッセマネで祈られました。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」(マタイ26:39)。御国で父なる神が下された救いのご意志の実現は、イエスさまの十字架によって実現しました。「御心が行われますように、地の上にも」というイエスさまの祈りが私たちに救いをもたらしてくださったのです。このイエスさまの救いをいただいた弟子は、救いの恵みの中で神さまの御心である救いが遍く地に生きる者にもたらされ、完成することを祈る者として生きるのです。ここに、偽善者のようでも神を知らない異邦人でもない、キリスト者の祈りの原点、キリスト者の生き方の原点があります。

2018513日)

マタイによる福音書6章10節a

 「御国が来ますように」という祈りをイエスさまは祈るように教えられました。「御国」とは神の国、天の国のことです。神さまが支配なさるところを「御国」と言います。ですから、この祈りは「神さまの支配が来ますように」という祈りです。イエスさまはその活動の第一声として「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われました。御国は近くに来ている。悔い改め、神さまに向き直るならもうあなたのもとに来るだろう。そのように神さまの支配はあなたがたの間に来ていると言われました。そして、このイエスさまの招きに応えたのが弟子です。弟子はその意味で既に「御国」を経験しているのです。にもかかわらず、「御国が来ますように」と祈ることを教えられるのはなぜでしょう。私たちは「御国」をどのようなものと考えているでしょうか。苦しみ、悩み、悲しみ、不幸のない世界と思うのではないでしょうか。神さまを信じる者は、苦しみから救われなければならない、悩みを解決してもらわなければならない、悲しみを遠ざけ、不幸を味わうはずがない、そのために神さまは働くのだ。私の望むことを実現するのが恵みなのだ、というのは神さまを支配しようとすることです。しかし、私たち信仰者も祈りの中でそのように神さまを、願いをかなえるために支配しようとするのです。この罪の誘惑はとても強いのです。だから、イエスさまは「神さまこそが支配される」ことを求めなさい、と教えられました。苦しみの時、悩みの時に最も必要なのは神さまの愛の支配です。まことの恵みをもって報いてくださる神さま御自身です。

201856日)

マタイによる福音書6章9節

 今日からマタイによる福音書の伝える「主の祈り」を少しずつ読んでいきます。聖書には、腑に落ちると途端に多くの分からなかった御言葉を悟らされ、信仰が光のように差し込んでくる「肝」ともいうべき言葉があります。主イエスの「十字架」や「復活」はまさにそうです。そして祈りにおいて「肝」となるのが、「天におられるわたしたちの父よ」という最初の呼びかけです。特に神さまを「父」と呼べるということです。この「父」という言葉は最も日常的な「お父さん」という言葉です。少なくともユダヤの人々にとって「父よ」という神さまへの呼びかけはあり得ない、異常といえる呼びかけでした。神は恐ろしい方であり、名前を呼ぶことすら赦されず、「主」と言い換えていたほどです。なぜなら、神さまが近寄るならば、罪ある人は滅びるしかないからです。決して神さまは、親しく「父よ」と呼べる方ではありませんでした。しかし、主イエスは繰り返し神さまを「父」として教えられ、祈りにおいても「父」と呼びかけることを教えられます。それは、偽善者や異邦人のように神さまの御心を知らないで祈るのではなく、私たちを「愛して」おられることを知った者の祈りだからです。わたしたちはいろいろ重荷を負っています。その時「しかし、神さまはわたしの父」と祈りのたびに告白します。神はわたしたちの本当に奥底の隠れたことを見られ、願う前から必要なものをご存知でいてくださるのです。そして「父」として大きな祝福を約束してくださるのです。

2018422日)

マタイによる福音書6章7~8節

 主イエスの祈りについての教えが続いています。ここでは、異邦人のように祈ってはならないと教えられています。異邦人というのは、外国人のことですが、「神を知らない人々」と理解をすると良いでしょう。神さまを知らない異邦人は、祈りを「くどくどと述べ」ます。何度も繰り返すということです。何度も繰り返し、繰り返すほど祈りのパワーが増すと思っている。祈りのパワーを増し何とかして神さまを振り向かせよう、神さまに祈りを届けようとするのです。もちろん、言葉を繰り返しても、祈りが力を持つということはありません。祈りを支えるのは私たちの熱心ではなく、私たちの祈りを聴かれる神さまの愛です。神さまは必ず聴いてくださるのですから、たった一言で十分なのです。また、「言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている」というのは、祈りをたくさんの言葉で飾るということです。会ったことのない人にお願いをするのであれば、そういったことも必要かもしれませんが、わたしたちの父である神さまは「願う前から、あなたがたに必要なものをご存知」の方です。だから、言葉を飾って願いを聴いてもらおうとする必要はないのです。ここでも大事なことは神さまは必ず祈りを聴いておられるということです。わたしたちの父として主イエスが教えてくださる神さまは、私たちのことを私たち以上にご存知の方です。それなら何故いのるのでしょうか。それは、祈りは願い事だけではないからです。父である神さまと出会うことです。最も小さい礼拝と言っても良いでしょう。神さまを知っている者、信仰者の祈りは、神さまとの愛の交わりとなるのです。

2018415日)

マタイによる福音書6章5~6節

 主イエスの祈りについての教えが始まります。まず第一に祈りは神に向けてされるもので、人に評価されるものではないことが教えられています。人に見られようとしてする祈りは「偽善」とまで言われています。徹底的に神に向かうことが求められています。そこで奥まった部屋で独りで隠れたところにおられる神に祈るようにと教えられています。何とかして偽善者となることを避けなければなりません。しかし、私たちは祈りにおいて自分自身の満足のために祈りを利用することすらあるほどに弱い者です。祈りが神に向かわずに独り言になってしまうことがあります。自分の迷いや不安を祈りの中で言葉にすることで、満足してしまうことがあります。祈った気になるのです。しかし、その祈りは神に向けられていません。報いを自分自身から受け取ってしまうのです。だからこそ、ここで主イエスは父なる神を隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる方として紹介されます。偽善者として神以外から報いを受けてしまう取り繕った私たちの心の奥底の隠れたところを神はご覧になれるのです。これは恐ろしいことでしょうか。むしろ逆です。神は、罪の底に沈む、もっとも隠された神を求める声を聞かれるのです。偽善の罪の底を訪れて、なお真実の祈りを聞き分けてくださろうとする方なのです。それは主イエスによって実現する祈りの奇跡です。どんなに神に祈りを向けようとしても、罪に遮られ、神以外に心を奪われる私たちの祈りは、「祈りの主」となってくださる「主イエス・キリストの御名」によって担われ、執り成されて、父に見ていただける祈りとなるのです。

201848日)

 

マタイによる福音書6章1~4節

 「施し」を通して、善い行いを人前でしないように注意しなさいと教えられます。さもないと、本当に大切な神さまからの報いをいただく前に、神さま以外から報いを受けてしまうからだと言われます。善い行い、つまり愛の行いが自分を誇るための行いになってしまうのです。自分を誇る本心を隠して善い行いをすることは、偽善の罪を犯すことになります。そもそも施しをすることができるのは、その行いに先立って「悪人にも善人にも太陽を昇らせ」る神さまから恵みの施しを豊かにいただいているからです。神さまからいただいた愛の恵みを、私たちの行いを通して隣人に届けることが「施し」です。賛美されるべきなのは神さまであって、私たちではないのです。私たちが讃えられることを求めるならば、それは神さまの栄光を盗むことになります。神さまの愛を離れた施しには、神さまを忘れさせる誘惑が多いのです。だから主イエスは、徹底してこの誘惑から逃れるために、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」というほどに気をつけなさいと言われるのです。神の愛によらない行いは、天の国への道を歩むことになりません。神さま以外からの報いは、この世の支配する罪と悪からの報いになります。それは天の国から私たちを遠ざける誘いです。まことの施し、善い行いの源である愛の神さまに心の目を向け、十字架で全てを私たちに施してくださった主イエスに心の目を向けて善い行いに励むのです。そこに神さまが愛の報いを与えてくださいます。

2018318日)

2021年8月18日水曜日

マタイによる福音書5章43~48節

 律法学者やファリサイ派の義にまさる義、天の国に入るため、神の子として神さまに受け入れていただくための教えの最後です。「隣人を愛し、敵を憎め」という掟は、旧約聖書には出てきません。「隣人を愛せ」という律法はありますが、「敵を憎め」という律法はありません。同胞であるユダヤ人を愛し、敵対する神を知らない異邦人を憎めという意味であろうと思います。ルカ福音書に「良きサマリヤ人の譬え」が出てきます。この譬えのきっかけとなったのは、「隣人とは誰ですか」という問いかけでした。私たちは際限なく愛することはできない。だから、愛する対象を絞らなければならない。その線引きが「隣人」でした。しかし、主イエスは「敵を愛せ」と言われます。神さまの御心は敵であっても「隣人」なのだから愛することを望んでおられるのです。迫害する者のために祈ることを願っておられるのです。しかし、そんなことはとてもできないと思います。この主イエスの命じられる「敵を愛せ」という言葉に、多くの人がつまずきました。それは、福音の理解に大きな間違いがあるからです。大事なのは「敵を愛せ」という律法を成し遂げられたのは、私たちでも、律法学者やファリサイ派でもなく、主イエス・キリストだけだという十字架の事実です。主イエスが十字架で敵を赦し、救いを祈ってくださったときに、「天の父の子となるため」の唯一の義である愛を全うしてくださいました。敵を愛さなければ天の国に入れません。しかし、私たちは愛し抜けません。だから、主イエスが愛し抜いてくださり、天の国の門を私たちのために開いてくださったのです。これが福音です。

2018311日)

マタイによる福音書5章38~42節

 「目には目を、歯には歯を」という律法の言葉は、この律法は「同害報復法」と呼ばれて理解されることが多いのです。つまり、自分に被害が与えられたのなら、その被害と同じ分量の害を相手にも与えて良いということです。しかし、それ以上はしてはならないということです。しかし、この言葉の元となった律法の言葉であるレビ記241920節にはこうあります。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」元々は人を傷つける罪を犯した者の「償い」についての律法なのです。「目には目」の復讐をしてもよいという教えではありません。ここが主イエスのお言葉を聞く時の鍵となります。主イエスはこの律法の言葉の後に、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。無抵抗であれと教えているのではなく、相手が罪をもってあなたを苦しめる時に、復讐ではなく、愛をもって応えなさいと教えているのです。それがこの律法に込められた神さまの本来の御心なのです。しかし私たちにはとてもこの律法を満たすことはできそうにありません。些細な事にも苛立ち、憎み、嫌みの一つも言わないと収まらない私たちです。しかしそれでは天の国に入ることができません。そのために救い主が来られたのです。主イエスは、十字架の苦しみの中で、頬をうたれ、罵られ、上着を奪われ、十字架を負わされて、なお敵を愛し抜いてくださいました。この罪の贖いによって天の国は開かれたのです。

201834日)

マタイによる福音書5章33~37節

 「誓い」についての教えです。誓いに似た意味の言葉に「約束」があります。約束の保障として様々な担保を用意します。しかしどれだけ高価なものを用意しても、約束を「絶対」に果たすと言い切れはしません。そこで、最高の担保として「神」を約束の保障とすること、それが「誓い」です。誓いは、誓った者だけのものではなく、神さまの威光に関わるものであるということです。それが破られるということは、明白な罪であり、威光を損なわれることになった神から裁かれ滅ぼされるということです。だから、誓いを必ず果たす力のない私たちは、神の怒りを招く罪を避けるために、「誓ってはならない」のです。しかし約束や誓い無しに、何をもって私たちは神さまとの関係を結べばよいのでしょうか?隣人との関係を何をもって結ぶのでしょうか?そこで、この主イエスの「誓ってはならない」と言われる「誓い」が、神さまではなく私たちの力に頼って誓うことを戒めていることが重要です。私たちは、まずはっきりと知らなくてはなりません。私たちは自分の髪の毛一本すら、白くも黒くもできない、思い通りにはできない小さな弱い存在です。私たちの力だけで神さまと結ばれ、隣人と結ばれることはできないということを自覚しなければなりません。しかし主イエスは、誓いを果たせない私たちの罪を負ってくださいました。不真実な私たちに、神さまは真実なお方である主イエスを与えてくださいました。この方の愛に支えられて、真実に約束に仕える者となるのです。

2018218日)

マタイによる福音書5章31~32節

 離縁について主イエスが教えられた言葉です。これはすぐ前の「姦淫するな」という十戒の教えと結び付けて読まれるべき箇所です。離縁について、律法は、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と教えています。そこで、この律法を適用して離縁を行うときに議論されたのが、「どういう理由で離縁してよいのか」ということでした。言い換えるならば、夫には妻を離縁する「権利がある」という理解の下で律法を行おうとしたのです。その結果、夫の傲慢や、理不尽な要求、夫の都合で離縁状を出すということが起こっていたようです。しかし、主イエスは「不法な結婚」以外で離縁することは罪であることを教えられます。「不法な結婚」とは、姦淫の罪が明らかな結婚関係ということです。妻が姦淫の罪を犯した場合です。しかし結婚は愛をもって結ばれる隣人関係の基本であり、一人の人のようになるという神さまの祝福の出来事です。それを夫の都合で一方的に離縁状を出して破壊することは、「姦通の罪を犯させる」ことになると厳しく言われます。結婚の関係は一方的に破壊してはならない隣人関係なのです。さらに言うならば、これは結婚の関係にだけでなく、私たちの隣人とのかかわり全体に言えることです。自分の都合で切り捨ててはならないのです。この律法を教えられる主イエスは、十字架の上で赦しを祈ってくださり、私たちの罪のために失われていた神さまと私たちの関係を取り戻してくださいました。この主イエスの十字架に現れた「赦し」が鍵なのです。

2018211日)

マタイによる福音書5章27~30節

 「姦淫するな」という掟は律法の中でも特に重要な十戒にある掟です。この掟から、主イエスは神さまの罪に対する厳格な姿勢を教えられます。神さまは私たちの心の中までご存知です。ですから、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われるのは、神さまは既にその時に罪を見つけておられるということです。罪とはそれほどに素早く私たちを捕らえ、更に深く重い罪へと私たちを引きずっていきます。そして、罪に対する神さまの裁きは「死」です。地獄に投げ込まれるのだと言われています。主イエスにより神さまが罪を赦してくださるというのは本当です。しかし、それは神さまにとって罪が軽々しく扱われるということではありません。神さまこそ罪に対する最も厳格で恐るべき裁き主です。だから目をえぐり出し、手を切り落としてでも罪の原因を徹底的に取り除かなくてはいけません。しかしそうであるならば、私たちには何が残るのでしょうか。目だけ、手だけではすみません。むしろ天の国に相応しい部分は、心にも体にもないのです。罪に対する神の裁きの追及は徹底的なのです。この恐ろしい罪に対する神さまの裁きを身代わりとなって受けてくださったのが主イエスの十字架でした。主イエスが私たちに代わってご自身の目を、手を、全身を死に渡してくださったのです。罪に対する神さまの裁きの恐ろしさを知るほど、主イエスの十字架の救いが本当にあり得ない大きな恵み、救いの御業であることを知らされます。

201824日)

マタイによる福音書5章25~26節

 和解を教えておられる主イエスの言葉の後半は、こちらが一方的に相手に対して負い目を持っている時に、早く和解することを教えています。その時の和解とは、「赦し」を求めるということでしょうが、どんなに必死に、誠実に、正しく赦しを求めても、赦してもらえなければ和解はあり得ません。どんなに負い目を持つ者が立派な人間になろうと、正しく生きていようと、赦してもらわなければ意味がありません。その時に、こんなに必死に赦しを願っているのに、こんなに正しく生きているのに何で赦してくれないんだ、と恨んでも何の救いもありません。むしろそんな言い方は「義」から遠ざかることになるでしょう。訴える側の憐れみによる他ない和解、それがこの前の箇所の「兄弟との仲直り」との決定的な違いです。しかしだからこそ、この和解を得るための「義」の道を間違えてはいけないのです。主イエスは罪の負い目を持つ私たちの救いのために来てくださいました。私たちの罪の負い目を十字架で引き受けてくださり、私たちに神さまとの和解を与えてくださいました。負い目の一切を神さまは主イエスによって赦してくださいます。それを知ったならば、躊躇っている場合ではないのです。終わりの裁きが定まる前に、愛と憐れみによって差し伸べられた神さまからの和解を感謝していただき、滅びから命へと移されること、この他に「義」の道はないのです。

2018121日)

マタイによる福音書5章21~24節

 今日の箇所の直前にイエスさまは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」と言われました。律法学者やファリサイ派の人々というのは、「律法」という掟を守って「義」に生きようとした人々です。それらの人々以上の「義」がないと天国に入れないと言われると途方に暮れてしまいます。ここで「殺すな」という誰でも知っている律法の掟をあげて、これを厳格に守っている人々以上にこれを守ろうとするなら、殺すことに繋がってしまう罪の初めである腹を立てることすら、裁かれることになってしまう。「義」を正しく厳格に生きるという点で理解すると、行きつく先は私たちにはどうしようもないところが見えてきます。それでは誰も天国に入れません。これは神さまが私たちと共におられるから求められる「義」を間違って理解しているからです。「義」は神さまの御心にお応えすることです。「殺してはならない」、だから腹を立ててもいけない。腹を立てたらもう天国には入れない、というのではなく、腹を立て、争いを起こす時に、共におられる神さまの御心に思いを向け、御心に応えて和解を願うこと、神さまと一緒に和解に生きることが「義」なのです。罪は救い主イエスが負ってくださいました。だから、私たちは悔い改めて神さまの御心に応える「義」を目指すことができるのです。

2018114日)

マタイによる福音書5章19~20節

 「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」と主イエスは断言されます。天の国の門を開ける鍵となるのが「義」です。「義」とは正しいということです。この「義」を間違って理解すると、この主イエスのお言葉は私たちを絶望させ、希望を失うことになりかねません。しかし、正しく主イエスの言われる、天の国の鍵となる「義」を知るならば、感謝と喜びをもって誰でも天の国に入ることができます。そのように大事な言葉が「義」です。律法学者やファリサイ派は当時のユダヤ教徒の中で完璧に律法の掟を守った人々です。それゆえに、自分達こそ救われるに値すると自負していた人々です。「義」を問われると彼らのように、自分自身がいかに正しい人間になるかが問題だと考えます。しかし、ここで求められているのは神さまの御心に応える義です。神さまが主イエスをくださったのは、私たちが「義」を満たす正しい人間であるかどうかを見極めるためではありません。罪人であろうとも、独り子主イエス・キリストを十字架の上で死なせてでも救おうとされる神さまの愛の決意のためです。そこで神さまが求められるのは、私たちが悔い改めて神さまのもとに帰って来ることです。その御心にお応えすることが「義」そのものです。主イエスの十字架の「義」が、私たちに天の国への道を与えてくださいます。

20171231日)

マタイによる福音書5章17~18節

 主イエスの十字架の福音と旧約聖書の律法は、対立したもののように考えられがちです。しかし、それは間違いです。主イエス御自身が言われるように、主イエスは律法を廃止するためではなく、完成するために来られたのです。主イエスが十字架にかかって救いの御業を成し遂げてくださったことに、律法の完成の姿があります。ゲッセマネで「御心がなりますように」と祈られて、死に至るまで神さまへの従順を貫いてくださり、私たちの罪を贖って私たちへの愛を死に至るまで貫いてくださいました。これが律法の求めた神と人の関係そのものなのです。律法は神さまの愛にお応えして生きることを掟として伝えたものです。愛に対しては、義務ではなく愛をもって応えることが律法に生きる者に求められた正しい姿です。しかし、律法を守ることが愛を離れて義務となったときに、愛ではなく、評価を求める律法主義が現れました。主イエスはそのように律法を守ることを教える者を厳しく批判されました。律法は神の愛に応え、神を愛し、隣人を愛する生き方を示したのに、むしろそこから人々を遠ざけることを教えていたからです。そこには神の名を呼びながら、実は神のない生活が現れてきました。主イエスは、この律法の求めを真実に貫いてくださり、律法に約束された神の恵みを、主イエスの十字架の救いを信じる私たちに与えてくださる救い主として来られたのです。

20171217日)

マタイによる福音書5章14~16節

 主イエスは、私たちを「世の光」と呼んでくださいます。光は灯されると隠れることができません。また、光は周りを照らして助けます。キリスト者は世にあってそのような役目を新たに神さまからいただきます。この光は「火」です。主イエスによって灯していただいた火です。この光を「立派な行い」と言われます。これは、この前に言われている「地の塩」としての塩味のことです。神さまの似姿として柔和に、平和に、義を求め、悲しみを共にすることです。信仰者として、道徳的に優れているとか、どれだけ自分を犠牲にしているかということを言いたいのではありません。それは、ただ地の塩として、福音に生かされる者になり、世の光として福音を宣べ伝える者になるということです。 ただ、イエス様に塩味を付けられた者として、隣人を無意味なものとせず、隣人に向き合っていく、そして神様の用いる「地の塩」として、隣人を塩気をもって生かします。それが、主イエスとの出会いへとつながり、主イエスによって父なる神をあがめるようになります。わたしたちは「世の光」として、罪の支配ではなく神さまの救いが訪れたという福音に生かされ、救いの光を身に帯びて、福音をあらわして世に生きていきます。そうして隣人に仕えます。これが主イエスによって新しいいのちをいただいた私たちに、神さまがお与えくださったつとめです。

20171210日)

マタイによる福音書5章13節

 主イエスは、私たちを「地の塩」と呼んでくださいました。それは、私たちが生きるのに塩が不可欠なように、地の被造物にとって不可欠な存在だということです。人はもともと「神の似姿」をいただき、神さまの義、柔和、平和、憐れみを生きる存在でした。それが地にとって「塩」のように不可欠なものでした。しかし、罪を犯し、神さまを離れた時から人は「塩気」を失いました。罪によって打ち捨てられ、悪に踏みつけられる者となりました。暗闇に住む者、死の陰の谷に住む者のようになりました。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」(13節)。失った塩気を人は取り戻すことはできません。被造物の何物にもできません。しかし、唯一「塩気」を取り戻してくださる方、与えてくださる方がおられます。来てくださったのです。それが私たちを「地の塩」と新しく呼んでくださった主イエスです。主イエスが私たちから「塩気」を奪った罪を十字架の上で贖い、新しいいのちを与えてくださいます。主イエスの十字架と復活によって、私たちは被造物世界に不可欠な、義、平和、柔和、憐れみに生きる新しいいのちをいただくのです。被造物の中で哀れな存在であった罪人を、地にとって不可欠な、大切な「地の塩」にすることが神にはできるのです。「それは人間にできることではないが、神には何でもできる」(マタイ1926節)。これが福音です。

2017123日)

マタイによる福音書5章10~12節

 神の子、神の民となったものが味わうことというのはなにかと言えば、それは「迫害される」ということです。主イエスはその迫害される者のことを、「義のために迫害される者」と言われます。義のためにというのは、「正しさのために」ということですが、それは主イエスのお言葉の中で「わたしのために」(主イエスのために)と言い換えられています。天の国に国籍を得て、神の子、神の民とされたキリスト者の正しさとは、主イエスのために、主イエスに従って歩む生き方です。それはこの世の罪の常識からは離れた生き方です。そのために、この世から嘲られ、軽んじられ、ののしられることがあります。信仰による考え方や価値観を周囲の人に理解してもらえないということは沢山あります。しかし、そのことが「主イエスのため」になります。もちろん、主イエスが私たちの苦しむ姿を望んでおられるということではありません。迫害されるというのは、主イエスのことが私たちを通して世に示されるからです。その時、私たちは紛れもない神の子、神の民なのです。私たちを用いて主イエスがお示しになる主イエスの義しさに人々は触れるのです。その義しさに触れることで、最初は迫害していいた者が、回心し、神の民にされるということが起きます。神さまの救いの御業に私たちがあずかるのです。それゆえに、主イエスは迫害されたときも、「大いに喜びなさい」と言われます。神さまの御業に加わる神の子に与えられる神さまの報いは大きいのです。

20171119日)

マタイによる福音書5章9節

  「平和」という言葉は私たちの周りに溢れかえっていますが、実は私たちは「平和」をどれほど知っているでしょうか。互いに傷つけ合わない関係のことでしょうか。それならば、相手を憎んでいても、嫌っていても、安全であれば「平和」なのでしょうか。いっそ無視した方がいい、相手をいないことにした方がいい、ということだって考えられます。そんな私たちに向かって、主イエスは「平和を実現する人々は、神の子と呼ばれる」という幸いを語ってくださいました。「平和を実現する」という言葉は、以前は「平和を作り出す」と翻訳されていました。主イエスが語られることの前提は、今は平和が無い、ということです。無いところに私たちが作り出していくものが平和です。何かを作るときには、その完成を思い描くことができること、作り出す行程を知ることが大切です。では、平和の完成とそのための行程を私たちに身をもって示し、教えてくださった救い主が主イエスです。主イエスの十字架は、神さまと私たちの間に無かった平和を作り出してくださいました。主イエスのご生涯と、教えは平和を作り出す行程を教えてくださいます。そして何より、「神の子」とされる幸いは、実は主イエスの十字架の贖いによって既に私たちに与えられている幸いなのです。私たちの平和を作り出すわざは、手探りで、恐る恐るであっても、そこに父なる神さまが共にいてくださいます。

20171112日)

マタイによる福音書5章8節

  「心の清い人」というのは、幼い子どものような純真さを保っている人と考えてしまいます。しかし聖書は、子どもは清いということは言っていません。むしろ、聖書は子どもであっても主イエスの十字架の贖いの救いを必要とする罪人であることを知らせます。それでは、心が清いとはどういうことでしょうか。それは、真っすぐに神さまを求め、見上げる心ということです。澄んでいるというよりも、二心を持たないと言う方が意味としては近いと思います。神さまを思いながら、同時にこの世のことに心を遣うようなことをしないということです。神と人とに兼ね仕えるような心ではない、ということです。しかし私たちは、そのような清さに生きることはできません。だから、神さまを見上げること、神さまに見つめられることは私たちの中に恐れを生み出します。罪の汚れを神さまに曝すことだからです。神を見ることは幸いどころか、罪人である私たちにとっては本来恐ろしいことなのです。しかし、主イエスはそれを「幸い」としてくださいます。私たちの罪を担ってくださり、本当の「心の清さ」をもって十字架の上で父なる神に私たちの罪の赦しを願ってくださった方が、主イエスです。神さまは心の清くない者を裁き滅ぼされることを願う方ではなく、そのような私たちのために独り子である主イエスを与えてくださり、一人も滅びないように受け入れてくださる神なのです。

(2017115)

2021年8月13日金曜日

マタイによる福音書5章7節

 「憐れみ深い人々」というのは、「かわいそうだ」と同情する心の深い人のことです。そうすると私たちは誰もがそういった心を持っているものです。しかし、これを言われたのが主イエスであることが大切です。主イエスの憐れみの深さは、時にはらわたが痛むほどであり、憤りを覚えるほどに激しい「憐れみ」でした。その憐れみが具体的に問われたのは、悲しむ人や苦しむ人を前にした時だけの「憐れみ」ではありません。それどころか、何の役にも立たない人、自分に対して罪を犯した人に向かって憐れみをもって「赦す」ことが、ここで問われる「憐れみ深い人」の具体的な姿です。主イエスはそのことを神さまの私たち罪人に対する「憐れみの赦し」として、後にマタイ福音書の18章のたとえ話を通して教えてくださいます。しかし、そうなると幸いをいただくことに値する「憐れみ深さ」は到底私たちが実現できるものではありません。それでは、私たちへの「憐れみ」という神さまの幸いはいただけないのでしょうか。そうではありませんでした。この幸いを約束してくださった主イエスは、その実現のためにこの世で唯一、「憐れみ深い」赦しを実現してくださった救い主でした。十字架の上で、私たちを憐れみ、罪を代わりに負って死んでくださいました。そして「憐れみ深い」者へと与えられる幸いである神さまの憐れみによる赦しを私たちに与えてくださったのです。

(2017年10月22日)

マタイによる福音書5章6節

 イエス様「義に飢え渇く人は幸いだ」と言われました。この言葉を「正しいことを求める人は…」と読み替えると分かるように感じます。誰でも、間違うよりは正しい方がいいでしょう。しかし、ここでイエス様は「義」と言われているのです。この「義」は神さまの「義」です。しかも、「飢え渇く」ように求めているのです。それが無ければ死んでしまうというほどの逼迫した求め方です。「義に飢え渇く」ということで思い起こしたいのは詩編42編です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」(2節)。まさにこれがここで言われていることです。神さまの義なる裁きを飢え渇くほどに求めている人です。世の支配に苦しめられ、世の不正に嘆き、世の争いに苦しむとき、「一体、神はどこにおられるのか、神の正しさはこの世のどこにあるのか」と、嘆く人々です。神を知らない人々から、「お前の神はどこにいる」とののしられながら、なお神を求める人々です。その人々に、主イエスは幸いを約束されます。あなたがたは満たされる。神御自身によって満たしていただけるのだ、と。主イエス御自身が「義に飢え渇く人」として、十字架の上で「わが神、どうして私をお見捨てになったのか」、と叫ばれました。そして私たちに神さまとの関りを取り戻してくださいました。復活され、天に昇られて後、弟子たちが受けたのは、神御自身である「聖霊」でした。今も聖霊なる神が、私たちの中を満たしてくださいます。

(2017年10月15日)

マタイによる福音書5章5節

「柔和な人々は、幸いである」という主イエスの言葉は、「心の貧しい人々」とか「悲しむ人々」と違いネガティブなものでないし、「柔和」というのを「やさしい」と解釈すれば、素直に受け止められる教えのように思います。柔和というのは、心の柔らかさがあり、他者を受け入れることができる人。さらに他者だけでなく、自分自身を柔らかく受け止めている人です。良い自分だけでなく、ダメな自分、弱い自分、貧しい自分を受け止められる柔らかさを持っている人です。マタイ福音書は1128節以下に主イエスの言葉を記しています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」主イエスこそまことに柔和な人です。全ての人を受け入れるために十字架にかかってくださるほどに柔和な方でした。そこから、柔和というのは「やさしい」だけではないことが分かります。激しい愛の闘いをするものなのです。ここで主イエスが「幸い」と言って呼びかけておられるのは、「自分を愛するように隣人を愛する」ことを願い、自分と他者を受け入れる愛の闘いをしている人です。その戦いに苦しみ悩む人々です。その人たちは、主イエスに愛の軛をいただいて、それを一緒に担っていただき、共に「地を受け継ぐ」のです。

(2017年10月8日)

マタイによる福音書5章4節

 「悲しむ人」とは「無くして悲しむ人」です。それは究極的には「死」によって愛する者を失った悲しみを指しています。愛する者を死によって失った人を慰めてくださった主イエスの物語が福音書にいくつも記されています。娘を失った会堂長ヤイロの物語、一人息子を失ったやもめの物語、そしてラザロを失ったマルタとマリアの姉妹の物語などです。いずれの場合も主イエスは死の喪失の悲しみの中にいる人々に憤りを覚えるほどの深い憐れみを覚えられ、「死」を打ち破って人々を死から取り戻してくださいました。これらの人々の他にも、主イエスによって死から復活させられた人々が多くいたことが福音書を読むと推測できます。死によってもたらされる悲しみは、死に対する勝利しかありません。すなわち、ここで語られている悲しむ人の幸いとなる慰めとは、「復活」のことです。ここで「慰められる」というのは、「傍らに呼ばれる」という意味の言葉です。救い主のもたらされる福音とは、十字架であり復活の傍らに招かれることが慰めなのです。十字架が私たちの罪を贖う救いの御業であり、復活は罪の故にもたらされた「死」への勝利です。悲しんでいる者たちはイエスの傍らに呼ばれ、主イエスのなさって下さったことを知らされ、信仰を与えられ、罪赦され、復活の希望に生きることができるのですそこで「悲しむ人々幸い」なのです。

(2017年10月1日)

マタイによる福音書5章1~3節

 マタイ福音書が記す主イエスの教えの第一声は「幸いである」でした。これは本当に恵み深い言葉です。マタイによる福音書が伝え聞いた主イエスのお言葉の中から、祈り、考え抜き、主イエスという方のことを伝えるのに最善であると選び抜いた言葉が、私たちに罪人に呼びかけられた「幸いである」という言葉でした。この言葉から始まる山上の説教を語られた主イエスが目にした人々は、日々の生活の満足の中で神さまを失った、みじめな貧しい心の人々でした。褒められた人々ではありません。むしろ罪人です。神なき暗闇と死の影にいるような人々です。しかし、神さまの独り子は、それらの人々を裁かれたのではありませんでした。「こうなればいい」、「こうすればいい」と教えられたのでもありませんでした。あなたがたは今や「幸いな者」と呼ばれるのだ、と宣言してくださったのです。どうしてでしょうか。「貧しい」というのは、どうしようもない状態を意味する言葉です。貧しいけれども神を求める純粋さがあるのだとかいうことではありません。罪深さにおいて神を失っているのですから、救いようがない状態です。気休めが一切入り込めないような、本当に何もない状態が「貧しい」ということです。この神無き貧しさの極み、罪深さの闇の中にいるのが、神の子がご覧になった私たち人間の真実の姿でした。しかし、今やこの罪の中に、闇の中に神さま御自身が到来されます。裁くためではなく、神を見失った人々を神さまが見出し、天の国に迎えてくださるのです。

(2017年9月17日)

マタイによる福音書4章23~25節

主イエスはガリラヤ中を回って福音を語り、病人をいやし、患いをいやされました。そうして主イエスの評判は周辺一帯に広まります。そして、「大勢の群衆が来てイエスに従った」とあります。一見すると病気をいやしていただいたから主イエスに従ったのかと思いがちです。しかし、「いやされた人々が従った」とは書いていません。奇跡が人々を従わせたのではないのです。病をいやされたのは主イエスの憐れみからです。もう一つここで主イエスがいやされたものとして「患い」があります。「患い」と翻訳されている言葉は「弱さ」という意味の言葉です。必ずしも病気を指す言葉ではありません。確かに、病気の時は様々な弱さを思い知らされます。病気から来る痛みや、治療の苦痛、自分の心の弱さ、健康な人への妬み、人の親切を素直に受けられない弱さ、そういった弱さが私たちを苦しめます。自分自身の弱さを自分自身が最も嫌っているのです。しかも、それらは普段私たちが目を背けているだけで、実際はたとえ体が健康であっても、私たちを脅かす弱さです。罪に脅かされた弱さです。主イエスはそこに「御国の福音」をもたらしてくださいました。このように弱い私たちに神さまが今、主イエスとして近づいてくださり、たとえ自分自身が自分の弱さに責め立てられることがあっても、神さまはいつも私たちを共にあって、味方であってくださることを教えてくださったのです。そのとき、大勢の人々が、神を信じ、弱さの重荷を神さまにあずけて、主イエスに従ったのです。

(2017年9月3日)

2021年8月10日火曜日

マタイによる福音書4章18~22節

主イエスは漁をしていたシモンとアンデレ兄弟を目撃し、いきなり「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。その言葉を、聞いて二人は直ぐに網を捨てて、すなわち自分の仕事を捨ててイエス様に従ったと書かれています。同じように、もう一組の兄弟、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネも、主イエスに呼ばれて、直ぐについていきます。彼らは、漁をするための舟と父親を残して主イエスに従ったと書いてあります。福音書には、漁師たちの心情が描かれていないので、彼らがどのような思いで、従ったのかを知ることはできません。彼らがついていくことができたのは、ただ主イエスが出会ってくださり、言葉をかけてくださったから、としか言えません。彼らは、自分が生きていくために、仕事をしていました。その時に主イエスは話しかけてこられ、仕事を中断させられるのです。そこで一端、仕事を中断させて、「私についてきなさい」と言われます。わたしたちが生きるために頼っている自分の力をふるっている最中に、それをやめさせて、「ついてきなさい」と言われます。これは先週読みました主イエスの宣教の言葉である17節の「悔い改めよ。」ということと繋がります。「悔い改めて神さまを見なさい」ということです。「網を捨てる」ということは、まさに、自分が頼りにしていた自分の力を捨てるということです。しかしそれは人生を放棄することではありません。なぜなら、主イエスを与えてくださった愛の神は、私たちの人生に必要なものをよくご存じだからです。主イエスの招きに応える時にこそ、私たちは真実に私たちの力を満たし、人生を支え導く方に出会います。

(2017年8月27日)

マタイによる福音書4章12~17節

主イエスが宣教を始められたガリラヤ地方は、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれています。外国ではありません。そこに住む人々が、ユダヤ人でありながら異邦人と交わり、神さまに心を向けない有様をまるで異邦人、神を知らない民のようだと言われていたのです。わたしたちも神さまを気にしないで生きています。神さまを知っている人でも、世の中で生活している時に、神さまのことなど忘れていることが多いものです。「異邦人のガリラヤ」と「わたしたちの生活」は重なりあうことが多くあります。ガリラヤの人々は特別に裕福ではありませんでした。しかし、食うに困るような貧困でもありませんでした。日々の生活の小さな幸と不幸で心がいっぱいだったのです。そのような時こそ、私たちは一番神さまから遠ざかっているのです。そして、神さまから遠ざかっているところで待ち受けているのは罪の暗闇です。その姿を「暗闇に住む民」と預言者は表現しました。実はそんな時、人は最も神さまを遠ざけて生きているのです。だからこそ、主イエスはその人々に向かって、天の国、すなわち神さま御自身が近くにいることを宣言されました。神のない暗闇を当たり前のように生きている人々に、神さまの方から近づかれます。それは、神さまを無視した生き方を裁くためではありません。滅ぼすためではありません。まことの天の父として、愛する子を探し求める父として、神さまが私たちに呼びかけられるのです。それは愛の声です。神さまに背を向け、暗闇に向かっていく子を呼び止め、お前の顔を見たいと願っておられる天の父の愛の声です。主イエスの御言葉と御業は、父なる神さまの招きの言葉を伝えることでした。

(2017年8月20日)

マタイによる福音書4章1~11節

 主イエスは私たちキリスト者の味わう苦しみのパイオニア(開拓者)です。洗礼を受けられた主イエスは、”霊“に導かれて荒れ野で悪魔の誘惑を受けられました。これは主イエスの修行ではありません。誘惑する者は主イエスに2度も「神の子なら…」と問いかけます。神の独り子である主イエスに、父なる神の愛を試して本当に神の子なのかどうかを示せと言うのですが、主イエス御自身と父なる神さまの関係に疑いの入る余地はありません。しかし、主イエスは神さまのご意思に従って、この誘惑に身をさらされました。それは、主イエスに続いて洗礼を受け、天において「これはわたしの愛する子」という神さまの御救いの宣言をいただく私たちキリスト者が、およそ例外なく経験する誘惑の苦しみに、勝利の道を示してくださるためです。悪魔の目的は父なる神の下から、悪魔の支配へと神の子とされた私たちを奪い取ることです。私たちが洗礼を受け、キリスト者となった後、この世は様々な誘惑の言葉で問い、私たちを苦しめます。「本当にお前は神の子とされたのか?神は本当にお前を救ってくれるのか?本当に愛してくれるのか?そんな生き方で神の子と言えるのか?本当に天の国に迎えられると思っているのか?」その時、私たちは誘惑者を打ちのめす強い力や、耳を塞ぐ狂信をもって戦うのではありません。幾度も幾度も私たちへの愛をあらわし、私たちを生かしてくださる神さまの言葉に寄り添うところで私たちは守られるのです。まさに「神の口から出る一つ一つの言葉」が神の子を生かすのです。

(2017年8月13日)

マタイによる福音書3章13~17節

 マタイによる福音書でイエス様が登場する最初の出来事は「主イエスの受洗」の話です。罪のない神の子、救い主であるイエス様がどうして「悔い改めの洗礼」をお受けになったのか。まず第一に神の独り子である方が、私たち罪人の仲間となるためでした。洗礼は、罪人が神様に示す悔い改めのしるしです。逆に言えば、洗礼を受けるということは、「私は罪人の一人です」と告白することです。そのようにしてイエス様はこれからいつも私たちの側に、私たちの味方となってくださったのです。第2にパイオニア(開拓者)として、新しい道を拓いてくださるためです。どんなに心を込めて悔い改めても、救いが得られるとは限りません。救いは神様が与えてくださるもので、悔い改めを代価にいただくものではありません。どんなに真剣な悔い改めも神様との間と隔てる罪の壁を取り除くことはできません。罪を解決し、神様から「赦し」をいただかなければ救いの道は開かれません。救い主であるイエス様はやがて十字架で私たちの身代わりとなって罪の罰を負ってくださり、神様の赦しを私たちに与えてくださいます。そうして神様と私たちとを隔てた壁は砕かれ、神様と私たちをつなぐ道が拓かれるのです。そのことを先取りして、その道を神の霊が鳩のように瞬く間に降って来ました。神様の方から罪人に駆け寄ってくださり、「わたしの愛する子」と宣言してくださいます。この道はもう閉ざされることはありません。まことにイエス様こと私たちと神様とを執り成し、神の国への道を拓いてくださる救い主なのです。

(2017年8月6日)

マタイによる福音書3章1~12節

 福音書は、それぞれ強調点は異なりますが、洗礼者ヨハネを、救い主をお迎えするために道を備える者として預言されていた人物であると紹介しています。マタイ福音書はヨハネのメッセージの中でも特に「悔い改め」に焦点をあてています。悔い改めは、日本人一般の感覚ですと、自ら心を入れ替えてこれからは行いを正しくしていこうという誓いのようなものと考えられます。しかし、聖書の中で「悔い改め」と翻訳される事柄は、「心もからだも一切を神さまの方へと向きを変えること」を意味しています。それは、一切を神さまに向けることで、自分を神さまにお任せし、神さまの支配とさばきに自分をあずけてしまうことを意味します。そこには、自分で何とかしようという意味はありません。ここが大切な点です。しかし、一切を神さまに向けてしまうということは、最も隠しておきたい「罪」を神さまの前に告白することでもあります。神さまは義なる方です。その方に罪を知られたならば、恐ろしいさばきがあることでしょう。そこで洗礼者ヨハネは告げたのです。「わたしは、悔い改めを導くために、あなたがたに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」後から来る方とは主イエス・キリストのことです。洗礼者ヨハネは悔い改めを迫りましたが、罪を解決することはできません。神さまの憐みにお任せする他ないのです。主イエスは、神さまの愛と憐みそのものである方です。この方が十字架で私たちの罪のさばきを身代わりとして受けてくださることで、罪を解決して神さまの救いを与えてくださるのです。この救い主を与えてくださった神さまを信じて一切をお任せしなさいと洗礼者ヨハネは告げたのです。

(2017年7月23日)

マタイによる福音書2章16~23節

  マタイ福音書12章の伝えるクリスマスの記事は、様々な意味で「誕生」を語っています。ヨセフや占星術の学者たちは神さまを失った生き方から、「神は我々と共におられる」という信仰の従順に生きる者となりました。教会では洗礼を受けて信仰に入ることを新しく生まれるという意味で、「新生」と呼ぶことがあります。同じ意味で、ヨセフも占星術の学者たちも新しい「神の民」として生まれたと言ってよいでしょう。私たちがいつものクリスマスで聞くのはおそらくここまでの話しです。しかしマタイ福音書は、もう一つの「誕生」を語ります。それはヨセフたちの「新生」とは正反対に、それまでの自分自身を守り続けるために、救い主に対する「殺意」がこの世に生まれたのです。ヘロデ王はあくまでその代表です。救い主を迎えて新しく神さまと共に生きる姿と、救い主を拒絶して神さまを抹殺しようとする姿とが、この世に姿を現したのです。この間に中間点はありません。主イエスの誕生は、私たちをそのどちらに生きる者となるのかを問うものだったのです。しかし、この主イエスに対する「殺意」に集中していく罪こそ、実は救い主が十字架で担ってくださった罪そのものなのです。やがてこの殺意は主イエスを「十字架につけろ!」という叫びとして人々を虜にしていきます。しかし、その叫びの中で主イエスが十字架の上で、この罪に対するさばきを受けてくださったことで、私たちに救いが与えられたのです。

(2017年7月16日)

マタイによる福音書2章13~15節

  占星術の学者たちが帰って後、ヨセフは夢の中で再び天使を通して神さまの御言葉を聞きます。それはすぐにエジプトへと逃れよというものでした。それは旧約聖書の預言の成就の為であって、全てが神さまのご支配の中のことでした。それにしても、住み慣れた地を離れて外国へ行きなさいということです。とても直ぐに承知できることではないはずです。しかし、ヨセフは神さまの言葉の通りに直ちに起きて、イエス様とマリアを守って、その夜のうちにエジプトへと出発しました。それまでに得た安息や平安を捨てて、ただ神さまの御言葉に従順に従ったのです。かつてはヨセフも神さまの御心を受け入れることができませんでした。しかし主イエスを迎えてヨセフは新しく変えられたのです。ここに聖書は、救い主を迎えた信仰者の姿を見ています。その信仰は「従順」であることが特徴です。神さまを聖書は「主」と呼びます。それは文字通り「主人」ということです。信仰者の人生の主人、命の主人です。その主の命じられることが明らかな時には、信仰者はそれまでの安息や平安を主人として従い続けるよりも、まことの主人である神のみ言葉に従うのです。そこに、たとえ同じ道を歩いているように見えても、この世の選択とは全く異なる生き方があります。「神は我々と共におられる」ことを信じるからこその従順です。それは大きな証しの歩みでもあります。なぜなら、その歩みには神の支配が常にあるからです。

(2017年7月9日)

マタイによる福音書2章1~12節

  救い主をお迎えした人々として、マタイ福音書はヨセフに続いて東方から来た占星術の学者たちを伝えています。彼らは、救い主の到来まであらゆる意味で神さまから遠い存在であったということです。占星術を含む占いは、神の民の中から取り除くべきものとして神さまが大変に嫌われたものでした。また、東方というのは神の民であるイスラエルの末裔のユダヤの人々にとって、歴史的に常に自分たちを脅かしてきた敵がやって来る方角でした。それまでの生き方や、出身、さらに歴史の中で積み重ねられてきた出来事のすべてが、彼らは神さまから最も縁遠い存在だということを示しています。しかし、そんな彼らの生き方の中に救い主の誕生をしめす「星」を神さま与え、見出させられたのです。彼らが求めて見つけ出したのではありません。神さまの方から彼らに働きかけられたのです。その時に、彼らは変えられました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」、すなわち救い主はどこにおられますか、と探さずにおれない存在となったのです。しかも彼らのこれまでの人生を支えていた宝を捧げ物として携えてきます。それまで神さまと無縁と思われた人々が、それまで人生を預けていた宝を救い主に捧げ、代わりにかけがえのない生ける神さまと共にある者、「神の民」へと変えられたのです。私たち一人一人も本当は神さまから遠くにいた存在でした。しかし、主イエスをお迎えして私たちも神が共におられる「神の民」とされるのです。

(2017年7月2日)

2021年8月9日月曜日

マタイによる福音書1章18~25節

 救い主イエス・キリストに一番最初にお会いしたのはマリアの夫となったヨセフではないでしょうか。家畜小屋で出産することになったマリアを励まし、生まれ出たイエス様を抱き、人間の中で一番最初に神の独り子に出会った、と言ってもよいでしょう。しかし彼が主イエスを受け止めるためには、「キリストの誕生の次第」として語られる苦しみがありました。婚約者マリアが聖霊によって身ごもったと告げられたヨセフの苦悩の深さはどれほどだったでしょう。順調であった人生は突然断ち切られたのです。しかも、そのことを誰にも相談できずに、「ひそかに」離縁しようと決意しました。深い孤独の中での決意でした。誰も頼れず、未来を見失い、離縁という仕方で何もかもを壊し逃げるしかなかったヨセフの孤独の中に、神の言葉が夢を通して到来します。孤独であり、何もかも奪い去られたと絶望するヨセフに、ただ神が語りかけられました。夢で告げられたのは、おそらくマリアからも聞かされていた内容です。しかしそこにある神の御心をマタイ福音書は「神は我々と共におられる」と記します。ヨセフのような絶望や孤独、誰にも頼ることができないとき、神はあなたと共におられた。そのことを告げられた時、ヨセフは一番最初に捨て去った「神の子を迎える」という道を選びなおしました。そして、神なき罪人というところから、神の独り子を迎えることで最初に救い主を迎える者、救われた者となったのです。

(2017年6月25日)

2021年8月8日日曜日

マタイによる福音書1章1~17節

 マタイによる福音書の最初は主イエス・キリストの系図が記されています。ある人は、これは聖書に置かれた最初の躓きの石だ、と言いました。カタカナの名前が続き、はじめて聖書を読んでみようとする人の気持ちを萎えさせてしまうように思われるからでしょう。マタイ福音書は新約聖書の27の書物の中で、一番最初に書かれたものではありません。しかし順番が一番最初に置かれているのは、この系図があるからです。一つは、アブラハムから始まるこの系図を通して、救い主イエス・キリストは旧約聖書に記された神さまの救いの約束の実現であることを示しています。アブラハムからダビデまでは父祖の時代、ダビデ後から捕囚まで、捕囚からヨセフまで、と三つに系図を分けています。「父は走り、子が楽をし、孫は乞食となった」という意味の言葉を山室軍平は紹介しています。まさにこの言葉のように、アブラハムから始まる父祖の時代、神さまの祝福の約束を信じて歩き、走り旅を続け、ついに祝福の実りである約束の地を得たイスラエルの民は、ダビデの時代に繁栄を極めます。しかしその後、神さまへの従順を失い、国は滅び、多くの者がバビロンに捕らえられていきました。その後、ユダヤの地に帰還しますが、ダビデ王家の末裔すらも貧しい暮らしをせざるを得ないことになります。神さまの祝福の実りを、世代を重ねるごとに失っていくかのようです。しかし神さまの約束は決して無くなりはしません。ついにこの系図に、神さまの独り子イエス・キリストが加えられて、新しい世代が始まるのです。主イエスの救いをいただく者は、神さまの天の祝福をいただく子として、祝福の系図に名を連ねていく者なのです。

(2018年5月28日)

はじめまして

はじめまして。

日本キリスト教団西荻教会で牧師をしている有馬尊義といいます。

このブログには、2017年5月28日から2021年8月8日まで西荻教会の日曜礼拝で語ったマタイによる福音書の説教要約を掲載していきます。

新型コロナウイルス感染症の危機の中で、Youtubeでの説教配信も始めました。

説教映像のあるものは、それらのリンクも要約と共に公開します。

西荻教会のチャンネルからご覧ください。

西荻教会Youtubeチャンネル 

https://www.youtube.com/channel/UCLwtSqrG-ELYj-zRoYyRhkQ


マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...