2021年8月10日火曜日

マタイによる福音書4章1~11節

 主イエスは私たちキリスト者の味わう苦しみのパイオニア(開拓者)です。洗礼を受けられた主イエスは、”霊“に導かれて荒れ野で悪魔の誘惑を受けられました。これは主イエスの修行ではありません。誘惑する者は主イエスに2度も「神の子なら…」と問いかけます。神の独り子である主イエスに、父なる神の愛を試して本当に神の子なのかどうかを示せと言うのですが、主イエス御自身と父なる神さまの関係に疑いの入る余地はありません。しかし、主イエスは神さまのご意思に従って、この誘惑に身をさらされました。それは、主イエスに続いて洗礼を受け、天において「これはわたしの愛する子」という神さまの御救いの宣言をいただく私たちキリスト者が、およそ例外なく経験する誘惑の苦しみに、勝利の道を示してくださるためです。悪魔の目的は父なる神の下から、悪魔の支配へと神の子とされた私たちを奪い取ることです。私たちが洗礼を受け、キリスト者となった後、この世は様々な誘惑の言葉で問い、私たちを苦しめます。「本当にお前は神の子とされたのか?神は本当にお前を救ってくれるのか?本当に愛してくれるのか?そんな生き方で神の子と言えるのか?本当に天の国に迎えられると思っているのか?」その時、私たちは誘惑者を打ちのめす強い力や、耳を塞ぐ狂信をもって戦うのではありません。幾度も幾度も私たちへの愛をあらわし、私たちを生かしてくださる神さまの言葉に寄り添うところで私たちは守られるのです。まさに「神の口から出る一つ一つの言葉」が神の子を生かすのです。

(2017年8月13日)

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