2022年1月6日木曜日

マタイによる福音書 17 章 14~20 節

  17 章は、イエスさまが高い山に、弟子の中で主だった3人を連れて登られ、その山の上で、まぶしい栄光の光に輝かれたという不思議な場面から始まっていました。この場面に立ち会った3人の弟子たちは、その栄光をずっと自分たちの手の中に持ち続け、その経験に浸りたいと願いました。けれども、栄光の姿にお変わりになられたイエスさまは、栄光の姿のままで高い山に留まり続けたのではありません。以前と変わらない普通の人としての姿に戻られたのです。どこにでもいる普通のユダヤ人の顔、お姿に戻られました。そして、弟子たちを連れて山を下りられ、地上の生活へと歩み出されました。そのイエスさまは、いったいどこに向かわれたのでしょうか。それが、今日の箇所に記されている「信仰のない、よこしまな時代」と呼ばれる私たちの生きているその現実の中へと下りられたのです。

一人の男が自分の息子を、イエスさまのもとに連れてきました。てんかんの病で激しく苦しんでいたというのです。彼はイエス様が不在だったので、弟子たちに癒しを願いましたが、弟子たちは癒すことができませんでした。それに対してイエスさまはこう言われたのです。マタイ福音書は 10章に、弟子たちがイエス様から悪霊を追い、病を癒す権能を授けられたことが記されています。授けられた権能というのは、自分の中に不思議な力があるというのではなく、祈りの力です。神さまに祈るのです。祈りの力をイエスさまから授けられていました。けれども、その祈りにおいて不信仰が現れたのです。そこで、イエス様は言われました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

「信仰のない」、「よこしまな時代」はどちらも神様を見失っている様子をあらわす言葉です。「よこしまな」というのは、「曲がっている」という意味で、神様に背を向けて生きているということです。

祈るというのは具体的な信仰の姿です。祈ることと信じることは別々ではありません。信じていないのに、祈るということはあり得なことです。信じているから祈る。祈ることそのものが神さまを信じ、信頼しているのです。弟子たちも、神さまを信じて、この子どもがいやされるようにと祈ったはずです。しかし、その祈りの中で信仰の限界、行き詰まりを経験しているのです。祈ることが虚しく感じたのかもしれません。この祈りは本当に聞かれているのか。神さまがその祈りに応えてくださるのか、疑う心が出てくる場合があります。自分の手に負えない大きな問題や悩みを抱えている中で、神さまにどうか助けてくださいと祈ることがあります。思いがけない試練や困難を前にして、神に祈る他ないときもあります。新型コロナウイルス感染症の脅威に世界中が怯えている今が、まさにそのような時です。キリスト者に祈りが求められています。しかしまさにそこで、神様を見失ってしまうのです。

イエスさまは弟子たちに言われます。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにはできないことは何もない」「信仰が薄い」というのは「信仰が小さくなる」という意味です。それは、神への信頼、イエス・キリストに対する信頼が、だんだん小さくなっていくのです。しかし、「からし種一粒ほどの信仰があれば」とイエスさまは言われます。この世の困難から見れば、私たちの信仰は取るに足らないほどに小さいと思えます。けれども小さくても、そこに真実の信仰があれば、山は動くというのです。祈りが聞き届けられるのです。そこに神さまの御業がはっきりと起こされるのです。なぜなら、救い主は私たちの時代の中に来てくださったからです。

祈りは、「主よ、憐れんでください」と願う声を、イエス様が聞いて憐れんでくださることに支えられています。主の憐れみを信じて祈る、その祈りの生活を今こそ新しくしていきたいと願います。

202045日)

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