2022年6月7日火曜日

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されています。キリスト教が旧約聖書に対して、「新約」聖書として区別する境目がここあります。復活されたイエス様にお会いし、「伝道し、教える」という使命が与えられ、「世の終わりまでいつも共にいる」という約束をいただいたことで、「新約」時代が始まったのです。新約時代は、すべての民を弟子とする時代です。それは、一切の権能を与えられたイエス様が、一人も滅ぼすことなく、すべての民の救いを定めてくださったことを意味しています。弟子たちはイエス様が救うと定めた人々のもとへ行き、洗礼を授け、教えるのです。何を教えるのかというと、代表的なのは、同じく山の上でイエス様が語られた「山上の説教」です。それらの使命を「世の終わりまで共におられる」イエス様と一緒に果たしていきます。ここに、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」(マタイ12223節)と記された預言の成就があります。弟子たちはこれまでイエス様と共に弟子として地上を歩みました。それは十字架の死によって失われました。イエス様を捨てることで弟子としての関係を壊しました。しかし、復活によって、不信仰で罪ある者であっても、死を迎えても失われない神と共にある関係、すなわち救いが与えられました。

202188日)

マタイによる福音書28章1~15節

 イエス様の復活についての証言は聖書の中でとりわけ重要な箇所です。しかし復活ほど福音書によって記事が異なっている箇所はありません。共通しているのは「墓が空であった」ということと、み使いがイエス様の復活を告げたこと、証言者は婦人たちであったことです。それらに福音書ごとに他の証言を加えて、復活の意味を伝えようとしています。マタイ福音書は、復活の記事を出エジプト記の、神様が葦の海を割ってイスラエルの民を救ってくださったことと結び付けて理解しています。そのために、復活の時を夜中にし、婦人の証言者をマリア(ミリアム)に限定して紹介して、神様の恐れるべき御業である復活を、「死から命へ」、「(罪の)奴隷から(神の子の)自由へ」、「悲しみから喜びへ」という意味を強調しています。また復活は、イエス様がご自身の力で復活されたのではなく、神様によって「復活させられた」出来事であることを伝えています。それは、イエス様の復活を初穂として続く私たちの復活の希望に直結しています。復活は人には受け入れがたい、理解を超えた恐るべき神の御業ですが、喜びの出来事として信じることなのです。では、どうすれば信じられるのでしょうか。それは、復活されたイエス様がご自身で決められた時と場所において、イエス様とお会いすることによってです。婦人たちは復活されたイエス様にお会いして、復活を喜びとして信じました。弟子たちも、イエス様が指定されたガリラヤで復活されたイエス様に会って復活の信仰へと導かれました。復活の信仰は、理解ではなくイエス様の招きによって与えられます。

202181日)

マタイによる福音書27章57~66節

 十字架で死なれたイエス様をアリマタヤのヨセフという弟子が引き取り、自分の墓へ納めました。これは律法に従った行いです。木にかけられた遺体を夕べまで、つまり翌日までそのままにしておいてはならないということが律法に定められています。イエス様の死が午後3時ごろと伝わっていますから、葬りは大変急いで行われただろうと思われます。しかしそのような事情以上に大切なことがここで証しされています。それは、本当にイエス様は死なれたということです。キリスト教の信仰において、「イエスは死なれた」ということは、大事な信仰告白です。使徒信条には「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り」と死を意味する言葉を重ねて告白しています。イエス様が本当に私たちの罪の贖いのために罪人への神様の裁きを受け、苦しみ死んでくださったことが、私たちの救いの礎だからです。そこで、イエス様の死を証しする「葬り」の聖書の記事はとても大切なことを伝えている箇所になります。イエス様の死が公に複数の人々によって確認されたことを伝えているからです。さらに、マタイによる福音書は、イエス様の葬られた墓に祭司長たちが、イエス様が復活したと弟子たちが言いふらすことのないようにするために番兵をつけて、遺体が盗まれないようにしたことを報告しています。番兵が墓に納められたイエス様を見張ることで、イエス様は仮死状態でもなく、本当に死んでおられることを証しています。しかも復活は弟子たちが遺体を盗んで、民衆に言いふらしたことではないことを証言しています。

2021718日)

マタイによる福音書27章45~56節

 イエス様は遂に息を引き取られます。昼の12時から3時まで全地が暗くなったとは、アモス書89節以下の預言の言葉を想い起させるものです。それは、罪人が裁かれる終わりの日についての預言です。イエス様の十字架において罪人への裁きが起こっているのです。その闇の中でイエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれました。これは詩編222節の言葉です。神に救いを求めても応えてもらえない苦しみの言葉です。イエス様は、私たち罪人の罪を引き受けて、ただお一人神様から本当に捨てられる「罪人の死」を迎えられたのです。イエス様だけが「罪人の死」を受けてくださいました。そのとき、私たちの罪は贖われたのです。もう神様は私たちを罪人として数えられないのです。イエス様の死によって、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。それは、神様と私たちを隔てるものが無くなったことを意味しています。地震や岩が避ける出来事は、神様の臨在を示すものです。神様が私たちに臨めば、罪人である私たちは耐えることができません。罪を裁かれ死ぬのです。しかし、この時は墓が開いて死者が復活したと記されています。死の方が退いて、いのちが与えられたのです。これはイエス様に続く復活のいのちを示しています。その時、信仰から最も遠いところにいたイエス様の十字架の見張りをしていた百人隊長に神様から信仰の言葉が与えられました。神様が私たちと共にいてくださる新しい歴史、救いの完成へと向かう歴史がこの日始まったのです。

2021711日)

マタイによる福音書27章32~44節

 福音書は十字架で死なれたイエス様を伝えるために記されました。マタイによる福音書の十字架の記事は、他の福音書と比べると旧約聖書の預言の引用などはなく、事実をそのままに記している印象があります。その中で、マタイによる福音書が丁寧に記したのは十字架につけられたイエス様を見た人々の言葉です。人々がイエス様をののしり、侮辱した言葉が記されています。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗たちもイエス様をののしりました。繰り返されているのは、「自分を救え」、「十字架から降りて来い」という言葉です。さらにマタイによる福音書はこれに「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と記しています。イエス様の宣教の初めに、荒野でうけられた悪魔の誘惑を思い出します。しかし真に神の子であるイエス様は、ご自分を十字架から降ろされませんでした。ご自分を救うことができなかったのではなく、救わないことを決意してくださっていたのです。もしも、イエス様が十字架から降りられたなら、代わって神さまの裁きを受けるのは、私たち罪人の方です。「他人」である私たちを救うために、イエス様はご自分を救うことをなさらなかったのです。ここに、救い主の愛があります。そして、それは他ならない父なる神の御心でした。神様の御心に従ってイエス様は十字架にかかってくださったのです。人々のののしり、侮辱する言葉を、まさしくそのままに現実にお引き受けくださったことによって、私たちに救いが与えられたのです。

202174日)

マタイによる福音書27章15~31節

 祭りの時に、民衆の希望する囚人を特赦するという習慣がありました。当時、評判となっていたバラバ・イエスという囚人がいました。他の福音書によれば強盗と殺人の罪を犯した男です。ピラトは民衆に問います。「どちらを釈放して欲しいのか。バラバ・イエスか、それともメシアといわれるイエスか。」この問いかけは、大きな意味を持つ問いかけとなりました。死をもたらすバラバか、救いをもたらすメシアか、を問いとして福音書は記しました。そして、この世はこぞってバラバを選んだのです。教会はこれらの人々の中に、罪人である自分自身もいるのだと思ってこの記事を読んできました。裏切ったユダ、知らないと言い張ったペトロ、罪のない者の死を願う祭司長たち、深く考えることもしないで十字架に着けろと叫ぶ群衆、無責任なピラト、一人の人を嘲り、傷つけて楽しむ兵士の姿に、どこかに罪人としての自分自身を見い出したのです。それゆえに深く知らされるのです。ここに唯一人じっと沈黙を貫き、この罪に対する神様の裁きを代わって受けてくださっている方がおられる。救い主の沈黙を知って、キリスト者と教会は悔い改めを重ねてきました。罪は神さまに訴えるのです。「罪深く、あなたの愛する子の死を願う、救いようのない者たちを、今こそ裁き、滅ぼすべきではないか。今こそ、完全に彼らを捨て、離れるべきではないか。彼らは神に捨てられて当然のことをしている。この罪から逃れる者はこれまでも、これからも一人もいない。」しかし、神様と救い主であるイエス様の御心は変わりませんでした。ここに神の愛があります。

2021620日)

マタイによる福音書27章1~14節

 イエス様を殺すために、人々はイエス様を総督ピラトへと引き渡しました。そこでイエス様はピラトの尋問を受けられます。その間にイエス様を裏切ったユダの死について福音書は記しています。ユダはイエス様が有罪となったことを知り、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と神殿で告白します。しかしそれに対する祭司長たちの答えは「知ったことではない」でした。祭司の務めは罪を犯した者の贖いのいけにえを神にささげることです。しかし、罪の支配の中で、罪の告白を聞き、神様との間にとりなしをする祭司の務めは失われていました。その結果、悔い改めの機会を奪われ、罪の赦しを得られなかったユダは、自分自身の罪に耐えかねて自殺してしまいます。祭司長たちはユダが投げ込んだ銀貨30枚で外国人のための墓地を買います。それは救い主に関わる預言の成就でした。同時に、この時イエス様に対するピラトの尋問が始まっていました。ピラトの質問にお答えになった以外、御自分に不利な証言に対しては一切お答えになりませんでした。不利な証言に対して、自分の身を守るために抗弁しないイエス様のお姿は、非常に不思議に思われました。なぜなら、まるで有罪判決を望んでいるかのようだったからです。ピラトには祭司長たちがイエスの死を望んでいることは分かっていたことでしょう。イエス様は、ユダのように悔い改める者が侮られ、捨てられることの決してない神の御心による贖いと救いのために、一歩も引かずに十字架の死へと進まれたのです。そこにユダの罪も贖い担われた救い主のお姿があります。

2021613日)

マタイによる福音書26章69~75節

 捕えられたイエス様の後を追い、ペトロは密かに大祭司の屋敷の中庭にまで入りました。事の成り行きを見届けようとしたペトロは3度、イエス様の仲間ではないか、と問い質されます。ペトロは激しい言葉でそれを否定しました。「誓って打ち消した」とは、神様の名に懸けて誓ったということです。「呪いの言葉さえ口にしながら」とは、イエス様が滅びるようにという呪いを口にしながら、ということです。ペトロはイエス様との関係を徹底的に否定したのです。その後すぐに鶏が鳴きました。ペトロは、イエス様に「あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と予告されていたことを思い出し、自分の罪に打ちのめされて激しく泣きました。救い主としてご自分を責める者たちすら見捨てられないイエス様のお姿と、ペトロの姿とは対照的です。ペトロは使徒の中でも特に重要視されていた人物です。その人が、イエス様を否定した裏切者であることが全ての福音書で記録されています。もしかしたら、ペトロ自身がこの記録を残すことを強く願ったのではないかと思います。このような取り返しのつかない裏切りの罪を犯したペトロを救ってくださった恵みの記憶として、教会にイエス様の十字架の救いの大きさ、高さ、深さを証しするためにです。聖霊を受けて後、真っ先にペトロは人々の前でイエス様こそ救い主であることを証しします。その時、彼は自分たちのことを「そのことの証人です」と語りました。自分はイエス様と一緒にいました、イエス様の仲間です、と証言したのです。主イエスの救いにあずかり、聖霊を受けて、新しくされたのです。

2021523日)

マタイによる福音書26章57~68節

 捕えられた後、イエス様は大祭司カイアファのもとへ連れていかれました。そこで、イエス様を死刑にするために罪を明らかにしようと祭司長たちと最高法院の全員は偽証を求めますが、証拠を得られませんでした。一人の人を殺そうとする罪を犯しながら、巧みに神の律法を利用して自分たちの罪を覆い隠そうとするグロテスクな人間の姿が記されています。最後に、二人の証人が、「神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」とイエス様が言ったという訴えが出てきました。イエス様は神殿を「祈りの家」と呼ばれました。イエス様は救いの御業として、建物の神殿ではなく、救いにあずかる私たち一人ひとりを生ける神殿として、祈りの家としてくださいます。訴えられた言葉は、そのことをイエス様が言われた言葉でした。しかし、神への冒涜の証拠とされました。裁きの場は、もしもイエス様が死を逃れようと思われるならば、最後の機会であり、誘惑の時でした。しかし、イエス様の十字架の救いのご決意は揺るぎませんでした。イエス様は罪によって死に追いやられたのではなく、救い主として私たちの贖いとしての死を選んでくださったのです。その救いのご決意は、自分を裁いている大祭司をはじめとした人々にも向けられていました。今は、罪の支配の下でイエス様を救い主として受け入れることができず、罪の中で神の独り子を死刑にすることに熱心な彼らも、やがて、再び来られるイエス様を、救い主として迎える日が来ることを告げてくださいます。御自分の命ではなく私たちの救いを選んでくださったイエス様の愛があります。

2021516日)

マタイによる福音書26章47~56節

 ゲツセマネの祈りの直後、イエス様はイスカリオテのユダに案内された人々に捕えられます。ユダはイエス様を見分けるために接吻を合図にしていました。彼は「先生」と呼びかけて接吻します。これまで弟子たちはイエス様を「主」と呼んでいました。しかし、ユダはイエス様を救い主として「主」と呼ぶことを止めていました。ユダにイエス様は「友よ」と呼びかけられます。友という関係は、ギリシア語圏の文化では、友愛という重要な愛の関係と考えられていました。血縁に寄らずに、ただ愛によって成立するのが友愛だからです。最高の愛と考えられていました。ユダの裏切りの接吻に対して、イエス様は愛をもって応答されたのです。救い主を裏切るユダの罪は生まれない方がよかったと言われるほどの深い罪でした。しかしイエス様は決してユダを罪人として迎えることはなさいませんでした。罪人に定めず、愛する者として迎えられました。それだけでなく、これらのことは、聖書の言葉、預言者たちの書いてきたこと、つまり神様の御計画として「実現されなければならない」と重ねて語られました。イエス様は、ユダも、ご自分を捕えに来た人々も、逃げ去った弟子たちも、誰一人として「罪人」となさいませんでした。ここに私たちの罪を担い十字架で死なれる救い主の愛があります。この愛に触れた時、ユダの裏切りの時が止まりました。イエス様はユダの救い主でした。イエス様は、他に手段がないから諦めて十字架の死を受け入れられたのではありません。私たちを愛し、愛し抜かれたからこそ、十字架への道にご自分を預けられたのです。

202159日)

マタイによる福音書26章36~46節

 福音書は、イエス様が人々から離れて祈っておられたことを度々記しています。ゲツセマネはイエス様がお一人で祈られるときにこれまでも訪れてきた場所だったのでしょう。しかし、この時は弟子たちの中から三人をお連れになりました。後の教会へイエス様の祈りを証人として伝えさせようとなさるかのように、御自分の祈りを見せ、聞かせられました。また、一緒に祈るように求められました。イエス様の祈りは、十字架の死の悲しみから絞り出された祈りでした。祈りの姿勢は、「うつ伏せ」と伝えられています。神様の他に頼るところのない深い嘆きと苦しみの中にいる者の祈りです。その中でイエス様は、十字架の死を過ぎ去らせてほしいと願われました。まことの人となられたイエス様だからこそ、神様に裁かれ、捨てられる死の恐ろしさをよくご存じだったからです。しかし、イエス様は三度、父なる神からその願いを拒絶されました。イエス様は、御自身の願いではなく父なる神さまの御心が行われるように願われました。私たちも「御心が行われる」ことを祈ります。しかし、本当に御心が行われることを願うというのは、神様に問題を丸投げして考えないことではなく、深く考え抜き、最後まで神様に祈り、神様の御心の前に打ち砕かれることです。イエス様は、祈りについて「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ66節)と教えられました。ゲツセマネの祈りは、イエス様の密室の祈りを明らかにし、「御心が行われるように」という祈りの重さを示してくださっています。

202152日)

マタイによる福音書26章31~35節

 イエス様は弟子たちのつまずきを予告されます。弟子たちのつまずきは、神様によって預言者を通して伝えられていることでした。イエス様の十字架を前にして罪の闇はますます深まることが神様によって定められています。しかし、イエス様はつまずきの予告に続いて、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と伝えられます。先にガリラヤに行って待っていると約束されました。それは弟子たちのつまずき(裏切り)の罪を責めるためではありません。なぜなら、イエス様につまずき、そして裏切る罪も、十字架で贖ってくださるからです。「復活した後」とは、あなたがたを罪人とするために待つのではないということです。つまずきの罪を犯し、その罪の重荷に打ちのめされる弟子たちへのイエス様の深い愛の言葉です。その中には、イエス様を裏切る計画を進めているイスカリオテのユダも含まれています。ユダは後に、罪の重荷に耐え切れずに自ら死を選んでしまいます。それはイエス様の望むことではありません。むしろ、もう一度ユダと出会うことを救い主は望まれ、復活の命の中でユダを迎えようとされているのです。鶏の鳴く前に、イエス様と何のかかわりもないと言った後、罪の重荷に激しく泣いたペトロを愛する者として迎えてくださいます。どんな罪よりも、イエス様の十字架の愛と救いのほうが大きいのです。どんな罪も十字架の救いに勝つことはできません。そして、キリスト者は、つねに先に行かれるイエス様の赦しと慈しみと愛と恵みに迎えられます。これが教会を支える岩(ペトラ)である信仰です。

2021418日)

マタイによる福音書26章17~30節

 イエス様と弟子たちの最後の夕食は「過越の食事」でした。これは神様が奴隷であった先祖をエジプトから救い出してくださったことを記念し、神様の救いを子孫へ伝えていく重要な食事でした。イエス様はそこで教会が「聖餐」として受け継いでいく新しい神様の救いの食事を教えてくださいました。パンを裂いて弟子たちに与えて、「これはわたしの体である」と教えられました。そして、杯を取って同じく弟子たちに渡して「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。「多くの人」の中には、イエス様を捨てていく弟子たち、裏切るユダも含まれています。「契約の血」とは、出エジプトの後、シナイ山でイスラエルの民と神様との間に契約が結ばれた時に、契約のしるしとして民の長老に振りかけられた血のことを指しています。神と民の契約は、これからは自分たちを救い出してくださった方を神様とします、という契約です。神様のご意志に従うということです。イエス様が十字架において示された神様のご意志は、罪人を「赦す」ということでした。イエス様が十字架で流された血は、神様の「赦す」というご意志に罪人は属するという契約です。イエス様を裏切るという「生まれない方が良かった」と言われるほどの罪を犯す罪人であっても、神さまの赦しの意志に従い、赦されるのです。そして、イエス様は、御国で共に飲む時まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはないと言われました。この契約は、別の契約の血を必要としない最終的な神さまの決定なのです。

2021411日)

マタイによる福音書26章1~16節

 イエス様は、言葉による御業を終えられると、再びご自分の死を予告されます。二日後に十字架にかかり死なれるのです。祭司長や民の長老、そしてイスカリオテのユダの裏切りと、罪の世も救い主への殺意を明らかにしていきます。罪がイエス様を十字架に着けるための計画を立てています。その間に挟まれるように、イエス様の頭に油を注いだ女の物語があります。これは、神様による十字架の準備です。女の事情や言葉はありませんが、イエス様への愛から油を注いだことは間違いありません。救い主は「メシア」という言葉で、本来の意味は「油を注がれた者」です。神様に特別な務めを与えられた者、例えば祭司や預言者や王が受ける者です。それがやがて「救い主」を意味する言葉になりました。油を注がれることによって、世にイエス様を明確に「メシア」すなわち救い主として明らかにされたのです。それは同時に、罪人の救いを成し遂げる御業に任命されたということです。イエス様の死が定められました。そこで、イエス様は油を注がれたことを、ご自分を「葬る準備」として受け入れられました。当時、埋葬の際に体や巻いた布に香油を塗るという習慣がありました。弟子たちは女のことを責めました。弟子たちも罪によってイエス様への愛を見失いつつあることを示しています。救い主を人々から奪い去ろうと罪が画策する中、神様がイエス様のために女を遣わしてくださったように思えてなりません。罪の闇の迫る中で、イエス様と私たちへの父なる神の愛が輝いたのです。だから、福音が語られるところで記念として語り伝えられるのです。

2021321日)

マタイによる福音書25章31~46節

 再臨についての教えの最後は、再臨されたキリストが王として裁きを行われることが語られています。右と左に分けられた人々は、一方は祝福をいただいて、もう一方は罰を受けます。この譬えを聞いて、自分はどちらに分けられるのだろうか、と考える方もあるかもしれません。その際に、胸を張って右側に分けられると言える人は少ないのではないでしょうか。そこで、王であるキリストが問われるのは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」への行いです。「最も小さい者」とは、世の貧しい者ではなく、キリスト者のことです。キリスト者は間違いなく、イエス様が間違いなくご自分の「兄弟」と呼んで愛している存在です。神を信じる信仰は、「存在を信じている」のではなく、神を愛していると言い換えられます。イエス様を信じる信仰も、「イエスという人が実在したことを信じる」のではなく、イエス様を愛すると言い換えられます。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は兄弟をも愛するべきです。これが、神から受けた掟です」(ヨハネの手紙一42021節)。そして、イエス様がこの譬えで教えてくださるのは、最も小さい者の一人に向けたどんな小さな愛も、イエス様はご自分に対する愛として覚えていてくださるということです。だから、イエス様を愛する者は右と左に分けられることを恐れることはありません。私たちが忘れるほどの小さな愛も必ずイエス様は覚えていてくださいます。

2021314日)

マタイによる福音書25章14~30節

タラントンの譬えとして有名なたとえ話です。マタイによる福音書は、このたとえ話をキリスト・イエスの再臨を待つ弟子たちへの教えとして記しています。旅に出る主人がイエス様、僕たちが弟子たちを譬えています。タラントンという言葉が才能を意味するタレントの語源となっているので、与えられた才能を主のために生かしなさいという教訓として読まれがちです。しかし、このたとえ話の中ではタラントンは僕の力に応じて主人があずけた「少しのもの」に過ぎません。本題ではありません。額の差は、過大な負担を与えないようにした主人の配慮です。このたとえ話で問題とするのは、旅に出ている間の主人と僕の関係です。5タラントン、2タラントンを預かった僕は、主人の意を汲んで、すぐに商売をはじめました。主人と再び会う日を喜びとして、旅に出ている主人を愛して仕え続けました。そのことを主人は「忠実な良い僕」と呼び、喜びの内に僕たちを招いています。一方、1タラントンを預かった僕は主人の意を理解せず、直ちに1タラントンを地面に埋めて隠し、主人が帰ってくるまで主人との関係を断ち切ってしまいました。せめて、主人に仕え続けるのであれば銀行に預ければよかったのに、そうしませんでした。主人は財産が増えていないことを怒ったのではなく、主人との関係を断ち切っていたことを「怠惰」として責めています。信仰とはキリスト・イエスを愛することです。愛するキリスト・イエスの喜びを目指して、与えられた今日というタラントンを用いることです。再臨のキリストを待つ弟子の備えがそこにあります。

202137日)

マタイによる福音書25章1~13節

キリストの再臨を待つ教会の人々へのイエス様の教えの続きです。イエス様は、教会に集う私たち信仰を持つ一人ひとりに教えています。十人のおとめが、花婿を迎えるためにともし火を準備します。花婿がキリストであり、婚宴の席は神の国の救いを意味しています。ともし火は「信仰」です。十人は皆、花婿のためにともし火を準備しました。しかし、花婿の到着が遅れたために、皆眠り込んでしまいます。信仰や信仰生活において十人のおとめたちは同じように弱いものでした。そして、五人の愚かなおとめたちのともし火は消えそうになります。一方、賢いおとめたちは「油」を準備していました。同じように眠り込んでしまったのですが、愚かなおとめは花婿を迎えることができず、賢いおとめたちは花婿と共に婚宴の席に入りました。愚かなおとめと賢いおとめの違いは「油」を準備していたかどうかです。この「油」とは何でしょうか。一つは、信仰のともし火を燃やす神さまの霊、すなわち「聖霊」です。キリストの再臨を迎えるために、聖霊を求めることが大事なのです。もう一つは、この油を分けてくれるように愚かなおとめに請われた時に、賢いおとめたちがそれを断っている点です。勿論、意地悪なのではありません。この油は求められても分けてあげられないものなのです。それは、私たちのキリストへの愛です。信仰とはキリストを愛することです。キリストへの愛は、知識や力や財産のように分けることはできません。私たち一人ひとりとキリストとのことです。キリストの再臨を迎えるための備えは、何より救い主を愛する信仰なのです。

2021221日)

マタイによる福音書24章45~51節

 「目を覚ましていなさい」とイエス様は教えられました。何故なら、イエス様の再臨の日は誰にも分からないからです。忠実な僕と悪い僕のたとえは、「目を覚ましている」ことについて、教えています。これらの僕は、特に教会について譬えていると言ってよいでしょう。教会は良い僕として、主人から委ねられた仕事を忠実に果たします。その仕事とは「時間通りに、食事を与える」ことです。それは、私たちを生かす、イエス様の命の御言葉を定められた礼拝において語り、聞く教会の姿を譬えています。教会は、イエス様から委ねられた御言葉を伝えることに忠実であることが求められています。それは、コロナ禍においても変わりません。礼拝堂に集まることを自粛しても、み言葉を届けることをやめません。Webを利用して、あるいはCDやプリントを配って、命の御言葉を絶やさずに届けています。何故なら、教会には主人であるイエス様がおられるからです。再臨の時まで、私たちに見ることはできなくても、イエス様は私たちの主であり続けられ、主として再臨されます。「主がおられる」ことを信じ、主に委ねられた務めに忠実であろうとすることが、「目を覚ましている」ことです。一方で、イエス様を見失う時、教会は悪い僕となってしまいます。主人の帰りは遅いと決めて、主人を侮り、仲間を傷つけ家を支配しようとします。どんなに熱心で、どんなに良い活動であっても、イエス様を見失った時に教会自身がイエス様の家を奪い取る強盗のようになってしまいます。その時、教会はイエス様ご自身によって厳しく罰せられます。

2021214日)

マタイによる福音書24章36~44節

 キリストの再臨についての教えの続きです。キリストの再臨の日は、だれも知りません。天使も子であるキリストも知りません。ただ父なる神だけがご存知です。ですから、何年に世界の終わりが来る、というような予言は意味がありません。大事なのは、その日がいつかは分からないけれども、父なる神によって定められていることです。そして、キリストの再臨の時は、世の終わりではあっても、私たちの滅びの時ではありません。家の主人と泥棒の譬えは、家の主人が今の世の支配者である罪と死であり、泥棒が再び来られるイエス様のことを譬えています。今の世で私たちは、罪と死を主人とする家に囚われている奴隷です。しかし、そこにイエス様が来られて、罪と死から私たちを奪い返して自由と永遠の命を与えてくださいます。家の主人はこの泥棒であるイエス様に対抗できません。罪と死を主人としている私たちの世は永遠ではありません。ノアの洪水物語で、人々は自分たちの世が永遠に続くと思って、神さまを思わずに日々を重ねていました。しかし、人間の営みが明日を保障することはできません。それでは、私たち自身が営む日々に意味はないのでしょうか。そうではありません。目を覚ましていること、用意していることとは、何か特別なことではありません。この世で与えられている営みの中で重ねる日々が、神様の救いの完成に向けて進んでいることを信じることです。そして与えられる御言葉と聖霊の助けをいただいて、日々の生活を神様に思いを向け、祈り、生きることです。そのような日々の中に、突然イエス・キリストは再臨されます。

202127日)

マタイによる福音書24章32~35節

 終末と主の再臨について教えておられる箇所です。いちじくの木の枝や葉の成長から夏が近いことを知るように、終末も近いことがわかるということを教えられます。「これらのこと」とはこれまでイエス様がお話しになった偽メシアの登場や戦争、飢饉や地震、迫害といった事です。それらは恐ろしい出来事ですが、「終わり」ではありません。「この時代」とは罪の支配の下にある「よこしまで神に背いた時代」(マタイ1239)のことです。「これらのこと」の後、「この時代」が滅びます。罪と死の支配が終わるのです。私たちは、罪と死の支配こそ強力で、永遠で、むしろ罪と死の前では、主の福音がむなしくかき消されてしまうように感じます。しかしこの時代の中で私たちを脅かし、支配する罪と死こそが神様によって終わりを定められています。イエス様の御言葉こそ永遠です。そして、イエス様が御言葉によって告げられた神さまの救いの約束こそ永遠のものです。イエス様は十字架にかかり、救いを成し遂げてくださいました。私たちの迎える終末とは、時代とともに私たちも滅ぼされてしまうことではありません。罪と死が滅ぼされ、その支配から私たちが解放され、神様の救いの約束である永遠の命を生きる新しい時を迎えることです。お終いではなく、神様と共に生きる新しい命が始まるのです。それは喜びの日です。だから、いちじくの木の枝や葉を見て季節が近づくのを知るように、苦しみ、悩みの時、私たちを脅かす様々な出来事は「この時代」の中で起こります。しかしそのたびに終末と主の再臨の日に近づいていることを悟るのです。

2021124日)

マタイによる福音書24章15~31節

 主の再臨を迎えるための備えについて教えておられる箇所です。一つ珍しい言葉が出てきます。「読者は悟れ」という言葉です。「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、逃げなさい」というイエス様の言葉から、しっかりと悟りなさいと注意しています。憎むべき破壊者が聖なる場所に立つことで起こるのは、礼拝が奪われるということです。礼拝が奪われることは、信仰者にとって最大の悲しみです。しかしその時には「逃げなさい」とイエス様は言われます。どうして、「礼拝の場所を守り抜け」と言われなかったのか。その御心を悟ることが、再臨されるキリストをお迎えする備えに関わってきます。逃げると言っても、信仰を捨てることとは違います。神様の救いを信じるからこそ、逃げることができるのです。苦しみの期間は神様が短くしてくださることを信じて退くのです。私たちの教会も昨年、コロナ禍のために礼拝堂から退かなければなりませんでした。礼拝堂での礼拝が中止され、賛美を歌えず、出会いが絶たれた時、私たちの信仰がどれほどそれらによって代えられていたかを知らされました。イエス様はそれらも含めて、賛美であれ、礼拝堂であれ、交わりであれ、「ここにメシアがいる(救いがある)」と言われても、信じるな、と告げます。イエス・キリストの十字架によって私たちに救いを与えてくださった神様にだけ救いがあります。そして、神様は礼拝の場所におられるのではなく、聖霊として私たちと共にいてくださいます。再臨されるキリストは救いに選ばれている者を必ず集めてくださるという約束を信じるのです。

2021117日)

 

マタイによる福音書24章1~14節

 イエス様はエルサレムの神殿が破壊されることを予告されました。神様が聖名を置く神殿が破壊されることは、弟子たちにとって終末のことと思われたのでしょう。そこで、それはいつ起こるのか。終末の徴について尋ねました。イエス様は、弟子たちに偽メシアの出現、戦争、飢饉、地震などに「惑わされないように」、「慌てないように」と教えられました。何故なら、それらは必ず起こることになっていますが、それらは終末ではなく「産みの苦しみ」だからです。終末と聞くと、私たちは「世界が滅びる時」と思ってしまいます。しかし、イエス様が教えられる第一のことは、終末とは滅びではない、ということです。迫害のことも語られ、その中でイエス様の名のゆえに憎まれ、殺されることすら語られます。偽預言者が大勢現れ、不法がはびこり、愛が冷えます。イエス様を信じるキリスト者の死もまた、「滅び」ではなく、終わりではありません。神様が定められる終末は、イエス様の再臨の時であり、救いの完成の時です。決して恐れるべき時ではありません。私たちを怯えさせるどんなことも、終末の徴ではありません。終末の徴は、福音が全世界に宣べ伝えられることです。一人も滅びないで永遠の命を得るために、福音が宣べ伝えられ、その後に終わりは来るとイエス様は言われます。マタイ福音書では一番最後にイエス様が弟子たちに全世界へ福音を宣べ伝えることを命じられたことを記しています。終末に向かう教会は、惑わされず、慌てずに、イエス様に仕え、救いの完成を目指して、最後まで耐え忍んで福音を伝えるのです。

2021110日)

マタイによる福音書23章25~39節

 偽善者の不幸についてのイエス様の教えの後半です。後半では、偽善者は外面を取り繕うことで、内面の汚れを隠せると思っていることです。しかしそれは、内面をもご覧になる神さまに背を向けていることを意味しています。偽善とは、神さまに背を向けていることであり、人の評価や自分自身の満足を求めてしまうことです。神様以外の者に仕えているという点で、偽善とは偶像礼拝そのものなのです。だからこそ、必ず裁かれなければならない恐るべき罪なのです。しかし、この偽善者の不幸を暴くイエス様の御心はどこになったのでしょうか。それは、悔い改めを求めることです。偽善者は必ず裁きを受けます。だから、イエス様の弟子である預言者たちを送るとイエス様は続けられます。「先祖が始めた悪事の仕上げ」として、彼らは救い主であるイエス様を十字架につけます。しかし十字架を神様は偽善者を救う唯一の道となさいました。偽善者の受ける神さまの裁きをイエス様が身代わりとなって引き受けてくださいました。先祖たちの罪の報いも、これからイエス様の弟子たちを迫害する者たちの受ける報いもイエス様が引き受けてくださいました。今は主イエスを救い主として迎えることはできなくても、父なる神もイエス様も諦めておられません。偽善者たちを捨ててはいません。これからも何度も呼びかけ、救いへと招かれます。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」とイエス様を迎えることを願っておられます。厳しい裁きの言葉の中に、神様とイエス様の私たち罪人を救う激しい愛が語られています。

20201213日)

マタイによる福音書23章13~24節

 2325章までイエス様の説教が続きます。これは山上の説教(57章)と対照になっています。山上の説教で「幸い」が語られたのに対して、ここでは「不幸」が語られます。不幸をもたらす罪として、イエス様が示されたのは「偽善」でした。律法学者とファリサイ派の人々が「偽善者」と呼ばれています。彼らは律法を守ることに熱心でした。信仰心を燃やしていました。しかし、その中で自覚なく「偽善」に陥り、やがて自分も人々も救いから遠ざけることとなったと、イエス様は厳しい言葉で指摘されました。山上の説教でイエス様は「誓ってはならない」と教えられました。神様に対して「はい」、「いいえ」のどちらかを答えなさいと教えられました。しかし、偽善者たちは誓うことで人々に自分の信仰の熱心さ見せると共に、実際に誓いが果たせなかった場合の逃げ道を用意することに熱心でした。また、律法の中で神様が求められる正義、慈悲、誠実はないがしろにして、人々が感心する高価な品の十分の一をささげることに熱心でした。彼らは本来見せびらかすことを目的としていたのではありませんでした。しかし偽善の罪が彼らを捕え、「幸い」ではなく「不幸」を選び取らせていました。どんなに信仰に熱心であってもそこから逃れることはできません。私たちもそうです。私たちを不幸に導く偽善からどうやって救われるのでしょうか。この罪にとらわれ、不幸の中で行き詰る私たちのもとに、罪を贖ってくださる救い主であるイエス様が来られ、十字架で神様の裁きである「不幸」を全て引き受けてくださいました。そこに救いがあります。

2020126日)

 

マタイによる福音書23章1~12節

律法学者とファリサイ派へのイエス様の非難の言葉と読める箇所ですが、律法が明らかにした罪と救い主による救いへと思いを向けるように促す言葉です。22章までの律法学者やファリサイ派との問答が前提となっている言葉です。律法学者やファリサイ派は律法を伝える「モーセの座」に神様の御心によって着いています。律法は神様に由来するものですから、彼らが教える神の律法を軽んじてはいけません。しかし、彼らの行いを見習ってはならないと言われます。本来、律法は人を生かすためのものです。しかし、多くの掟の重荷を負わされた人は、律法を果たせない悩みの中で救いの希望を失います。しかし彼らを助けようとはしません。何故なら、彼らはモーセの座に着く自分たちを人に見せることに熱心となって、神を愛することと人を愛することを見失っているからです。この二つを失ってしまったら、他のどんな掟を果たしても意味がありません。これは律法学者やファリサイ派に限ったことではありません。律法の下では罪が明らかにされますが、そこに救いはありません。救いは「救い主」を通して与えられるからです。律法の下で、掟を重荷として罪にあえぐ時から、救い主を迎える時が来ています。これからは、十字架において律法を全うしてくださった「救い主」が唯一の先生であり、律法学者もファリサイ派も群衆も弟子も私たちも皆兄弟です。「父」として賛美されるのは、私たちに救いをお与えくださる天の父だけです。そして、神さまのみ前で兄弟として生きる私たちを教えてくださるのは、教師であるキリストお一人です。

20201122日)

マタイによる福音書22章41~46節

 ファリサイ派、サドカイ派らとの問答が続きました。それは「旧約」の問答でした、その後に、イエス様の方から質問されました。「メシアは誰の子だろうか?」当時、預言者の言葉から、メシアは「ダビデの子」と言われていました。そこで直ぐに彼らは「ダビデの子」と答えました。イエス様はメシア(救い主)について質問をされて、「旧約」から救い主による「新約」へと人々の心を向けさせます。メシアを「ダビデの子」と答えた人々には、メシアをダビデ王やソロモン王のように異邦人を支配するような強大な権力と富をもたらす地上の王という理解がありました。しかし、イエス様は聖書の言葉を引用されて、ダビデ自身が神の右に座しておられる救い主を主と呼んでいるのであるから、救い主はダビデ自身やソロモンのようなものではない、と示されます。マタイ福音書は「ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まり、ダビデの家系にイエス様が生まれたことを示しています。しかし、イエス様は聖霊によって宿ったダビデの血筋ではない神の子です。神の子がダビデの家系に代表される「人間の罪」を担うために人の家系の中に与えられたのです。メシアは「ダビデの子」と答えたときに、人々の目の前にいた方は「ダビデの子」と呼ばれてエルサレムへ迎えられ、賛美された方だということに気づいたはずです。イエス様の問いは、救い主としてイエス様を迎えるのか、という問いへと関心を向けさせます。しかし、それは人々の間にイエス様への殺意を決定的にもたらしました。これは救い主として十字架へと進む決意の質問なのです。

20201115日)

マタイによる福音書22章34~40節

 当時、律法の掟を果たす時に、掟の言葉だけでなく解釈や言い伝えが大事にされていました。その律法の専門家がイエス様に最も重要な掟は何かと質問しました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」イエス様はこのように答えられました。大事なのは、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」というイエス様の言葉です。「律法全体と預言者」とは聖書全体のことを指している言葉です。そして「基づいている」と翻訳された言葉は「ぶらさがっている」という意味の言葉です。この二つの掟が全うされなければ、他の掟も守れず、それは偽善となります。しかし、この二つを全うすることは私たちにはできません。それでは私たちは神様に受け入れていただけません。だから、救い主であるイエス様が「まことの人」として最も重要な掟を十字架で全うしてくださいました。神様を愛して御心に従い、私たちを愛して十字架の死を成し遂げてくださいました。律法を完成された罪のない方として私たちを救ってくださいました。イエス様が十字架にかかって死んでくださり、イエス様ご自身が救いの基となって私たちを支え、神様の救いへと入れてくださるのです。

2020118日)

マタイによる福音書22章23~33節

 復活を信じていないサドカイ派の人々がイエス様に復活に関わる質問をしました。律法に、「兄が跡取りの無いままに死んでしまった時に、兄の妻を弟は娶って妻として跡取りを得なければならない」という掟があります。そうすると、復活したときに妻は兄弟の誰の妻となるのか。兄弟が妻を共有することは姦淫の罪です。そうすると復活があるならば律法に矛盾が生じてしまうと考え、それは神様の権威を損なう考えだから復活はない、という主張をしたいのです。イエス様はサドカイ派の主張に対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われ、続けて「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われました。ここで主イエスは、「復活の時」と言われます。復活はあると明言されます。復活は「神の力」によるものです。神様は、無から世界を、そして私たちに命をお与えになったお方です。この世において体験していること、結婚のなどの人間関係、重荷、病などの全てのことです。それらのものは、神さまを離れ、罪に脅かされた隣人関係であり、罪のとげです。復活の時に神様と共に生き、神様の愛をもって満たされる命である新しい永遠の命を与えられます。この地上の人生において与えられている賜物も重荷も、全て終わりを迎えます。そして、神様は私たちに、新しい歩みを与えて下さるのです。

2020111日)

マタイによる福音書22章15~22節

 人々は、イエス様を罠にかけようとして、皇帝へ税金を納めることが律法に適っているのかを尋ねに来ました。イエス様が、税金を納めなくてよいと答えれば反逆罪に問われますし、納めるべきと言えばローマ帝国の支配を良く思っていない民衆の支持を失います。この質問をイエス様は「偽善」と言われます。そして「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と教えられました。税金を納める銀貨には、皇帝の肖像と銘が刻まれていました。当時のローマ皇帝には「神の子」を意味する銘がありました。つまり、この銀貨はローマの皇帝が権力を用いて民に与えたものであり、皇帝のものとして皇帝に返すことに罪はない。しかし、イエス様が本当に大事にされたのは「神のもの」です。神のものとは銀貨のことではありません。神の肖像を刻まれた存在(創世記127節)である「人」のことを意味しています。私たち自身は神のものであるから、私たち自身を神へと返すこと、すなわち「偽善」を捨て「悔い改める」ことを求めておられるのです。それは皇帝も例外ではありません。皇帝もまた神さまのものである人です。神のものは神に返すということは、全面的に創造主であり、救いの神である主に立ち帰ることに他なりません。そのこと抜きに皇帝への税金問題だけを取り上げるのは、皇帝には神さまのご支配は及ばないと考えることであって、正しさを装う「偽善」が現れるばかりです。

20201018日)

マタイによる福音書22章1~14節

 イエス様は神様の救いをいただくことを婚宴に譬えられます。婚宴に招く王は神様で、王子がイエス様です。王子の婚宴に入ることが救われることを意味しています。王は婚宴の席がいっぱいになることを望んでいました。ところが、約束していた人たちは来ないどころか、王の家来を殺してしまいました。王の心を理解せず、王を尊ぶこともしませんでした。そこで、今度は見つけた人を全て婚宴の席に招きました。ところがそこに礼服を着ていない人がいたので、理由を王は尋ねますが、黙っていました。この人も王の心を理解せず、王を尊ぶことをしませんでした。王の家来を殺した人々を王は滅ぼし、礼服を着ていない人は外に追い出されてしまいました。どちらも、王に対して考えられない異常な対応をしています。しかし、ここに私たちを含む神様に背を向けて生きる人間の姿があります。神様からご覧になると、罪人のである私たちの姿は、あり得ないような姿なのです。王がこのような者を滅ぼし、外へ放り出すのは、当然です。ところが本来ならば王と共に怒るべき王子、すなわちイエス様は、罪人を救うために世に来られたのです。滅ぼされる私たちに代わって、十字架にかかって罪を贖ってくださいました。私たちの代わりに神の怒りを引き受けてくださいました。イエス様の救いの御業によって、神の国の外に放り出されるべき私たちは、婚宴の喜びに勝る神の国へと招き入れられるのです。

20201011日)

マタイによる福音書21章33~46節

  イエス様のたとえ話の中で、最も残酷な話です。残酷なことをした農夫たちの異常さが目立ちますが、それ以上に「わたしたちの目には不思議に見える」(42)のは、僕を殺されながら、何度も僕を送り、「息子なら敬ってくれるだろう」と息子までも農夫たちのもとへ送る主人の姿です。農夫たちをどうするだろうか、と問われて人々は「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、…(ぶどう園を)ほかの農夫たちに貸すにちがいない」と答えました。これが常識的な考えでしょう。ところが、ぶどう園の主人は違いました。主人は、悪い農夫たちを愛しているのです。だから、彼らが悔い改めることを期待し続け、遂に息子まで送っているのです。これは、イスラエル(ユダヤ人)の歴史であると共に、私たち人間へ向けられている神様の御心です。神様は私たちを愛し、期待し続けておられるのです。その中で、殺される息子であるイエス様も私たちを愛し抜いて十字架にかかってくださり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。私たちの神様への信仰は、神様とイエス様の愛によって成り立っています。イエス様は隅の親石として、罪を打ち砕いてくださいます。福音は異邦人へと伝えられることになります。しかし、ユダヤ人が捨てられるのではありません。決して神様の方から私たちの悔い改めを諦めたりなさらないのです。これが神様の、「わたしたちの目には不思議に見える」愛なのです。

2020104日)

マタイによる福音書21章28~32節

  イエス様と祭司長たちとの対話が続いています。二人の息子のたとえを通して、イエス様は洗礼者ヨハネの洗礼について、教えられます。父の望み通りにしたのはどちらか、と問われて祭司長たちは「兄」と答えました。初めは逆らっても、考え直してぶどう園へ出かけたからです。これは正しい判断です。しかし、イエス様が人間を兄と弟に譬えて話しておられることが重要です。父の望みとは、「ぶどう園へ行って働きなさい」です。実は、よく読むと兄も弟も父の望み通りにしていないのです。何の働きもしていないのです。ただ兄の方は、考え直して出かけたので、「先に神の国に入る」だけのことです。二人とも働いていません。そこで大事なのが、父の望みの通りにする「子」が実はいるということです。それは、この譬えを語っているイエス様ご自身です。神の子であるイエス様が、父の御心に従って、世に来られました。十字架にいたるまで従順に父である神様の望みの通りになさり、働かれました。たとえ話の兄と弟とが満たさなかった父の望みを完全に満たして、兄と弟に譬えられる私たち人間が「考え直して出かける」、すなわち悔い改めて行けば、父である神様が神の国へ迎えてくれるようにしてくださったのです。イエス様の救いのお働きがあるから、私たちは働きの無いことを責められることなく、神様に迎えていただけます。イエス様は、洗礼者ヨハネの洗礼を天からのものと信じなかった祭司長たちに、神の国が閉ざされたとは言われません。彼らの救いの為に、父の望みの通りに十字架にかかられるのです。

2020920日)

マタイによる福音書21章23~27節

  神殿の境内で教えを語られるイエス様のもとに、神殿の責任者である大祭司と民の長老たちがやってきて問いただしました。「何の権威でこのようなことをしているのか。」イエス様の権威について、マタイ福音書は何度か言及しています。イエス様の権威についての答えは既に福音書の中で示されてきました。イエス様の御業は救い主である神の子の権威で行われています。そこで、イエス様は逆に大祭司らに問いかけます。それに対する彼らの答えが、彼らの権威が何によっているかを明らかにします。彼らは洗礼者ヨハネの洗礼について問われた時、気にしていたのは群衆の評価でした。彼らは群衆を恐れていました。本来、大祭司の務めは神様によって与えられたものです。彼らの権威は、神様の務めに召されていることにあります。しかし、彼らの思いは神様に向けられていません。ここに、神殿を「祈りの家」とせず、「強盗の巣」にしている者たちの姿が現れてきます。彼らは神様に心を向けていないのに、神殿を自分たちのものであるかのように支配し、祈りの家の権威の源を自任しているのです。そのような彼らに、イエス様は気付いてほしいのです。彼らは、もともと神様によって選ばれた民であり、神様によって委ねられた権威を与えられていたはずなのに、今は神様ではなく、群衆を恐れ、神様をないがしろにしています。だから悔い改めて、「祈りの家」の本当の権威をもつ神様のもとへ、悔い改めの祈りをもって立ち帰って欲しいのです。そのためにもイエス様は十字架の道を進まれるのです。

2020913日)

マタイによる福音書21章18~22節

  宮きよめから続いて、「祈り」の大切さを教える出来事です。いちじくの木は旧約聖書の預言の中で、礼拝をする民(イスラエル)を象徴するものです。いちじくの木に葉が茂っているのは、礼拝や献げものが盛大に行われている様子を表しています。しかし、肝心の「実」がない。「実」とは、「信じて祈る」ことです。祈りの家である神殿が強盗の巣になっている様を表しています。そして、祈りが失われた時、どんなに熱心に盛大に礼拝をして献げものをしても、滅びていくのです。救い主であるイエス様の与えてくださる救いは、私たちに祈りを取り戻し、失われることがないようにしてくださるのです。弟子たちに問われて、イエス様は信じて祈れば山を動かすことができると教えられました。大事なことは「信仰を持ち、疑わないならば」ということです。このイエス様の教えは、「からしだね一粒ほどの信仰」を教えられたことを思い出させます(マタイによる福音書171420節)。私たちは礼拝を整え、献金をします。私たちなりに「葉」を茂らせます。しかし、山を動かすような「信仰を持ち、疑わ」ないで祈っているでしょうか。むしろ、祈りながらいつも疑ってしまいます。願いながら、かなうわけがないと諦めています。そんな私たちの中にイエス様の方が「実」である祈りを見出してくださいます。そして父なる神の右で、ご自身の祈りととりなしをもって、からしだね一粒にも満たない私たちの祈りを、山をも動かす神の子の祈りが支えてくださるのです。だから決して私たちは祈りを失って滅びることはないのです。

202096日)

マタイによる福音書21章12~17節

  エルサレムに入られたイエス様は、まっすぐに神殿に向かわれました。そして、神殿の境内で商売をしている者たちを追い出されました。「宮きよめ」と言われる大変大切なイエス様のお働きです。イエス様は商売をしていることに怒られたのではありません。商売をすることによって、その場所で祈ることを許されている人々から祈りの場所が奪われていることを怒られたのです。それが「強盗の巣」と言われていることです。ですから、イエス様が商売をする人々を追い出されるとすぐに、本来この場所を与えられて神様への願いを祈るはずの者たちとして「目の見えない人や足の不自由な人」、「子供たち」がイエス様へ寄って来ます。彼らの願いを聞き、イエス様は癒しをもって神様の恵みを与えられました。その様子を見て子供たちの口には救い主への讃美が与えられました。すべて預言の成就でした。しかし、その様子を見た祭司長や律法学者たちは怒りました。彼らは「祈りの家」である神殿の管理者です。しかし罪によって鈍くなり、神様のこと、祈りのこと、礼拝のことを自分たちのものにしてしまったのです。神様を奪い、祈りを失わせている罪の姿が彼らの中にあります。祈りを奪った「強盗」の姿です。救い主であるイエス様は、祈りを私たちに取り戻してくださる方です。十字架の救いをもって、奪われることのない「祈りの家」へと私たち自身を新しくしてくださいます。

2020823日)

マタイによる福音書21章1~11節

  イエス様が子ろばに乗って、エルサレムへ入られた場面です。イエス様の地上のご生涯の最後の一週間が始まります。木曜の晩に捕えられ、金曜日には十字架につけられて殺されます。十字架の死から三日目の次の日曜の朝に、復活をされます。イエス様は明確に救い主としての自覚をもってエルサレムに入られました。しかしそれは叫び声をあげた群衆が期待した「ダビデの子」、すなわち権威に満ち、戦えば必ず勝利をする、ダビデ王国の繁栄を再現する強い実力者としてではありませんでした。既にイエス様はエルサレムでご自分が死に復活することを予告しておられました。それがイエス様の救い主としての自覚なのです。この群衆とイエス様の救い主についての理解と期待の違いが、やがて群衆の「ホサナ」の叫びを「十字架につけろ」の叫びへと変えてしまうのです。その意味では、群衆の叫びに包まれながら、明らかに子ろばに乗って、預言の成就として、まことの救い主としてエルサレムに入られたイエス様は孤独と言ってもいいでしょう。ただお一人の神の子の戦いがここにもあります。救いは徹底的に神の子イエス・キリストのみによってもたらされるのです。そしてイエス様の十字架と復活が実現し、私たちが救いをいただいてイエス様をお迎えする時、「ホサナ」の叫びは、本物の讃美の声となります。私たちを聖め、まことの讃美を取り戻してくださるのもイエス様です。

2020816日)


マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...