2022年6月7日火曜日

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されています。キリスト教が旧約聖書に対して、「新約」聖書として区別する境目がここあります。復活されたイエス様にお会いし、「伝道し、教える」という使命が与えられ、「世の終わりまでいつも共にいる」という約束をいただいたことで、「新約」時代が始まったのです。新約時代は、すべての民を弟子とする時代です。それは、一切の権能を与えられたイエス様が、一人も滅ぼすことなく、すべての民の救いを定めてくださったことを意味しています。弟子たちはイエス様が救うと定めた人々のもとへ行き、洗礼を授け、教えるのです。何を教えるのかというと、代表的なのは、同じく山の上でイエス様が語られた「山上の説教」です。それらの使命を「世の終わりまで共におられる」イエス様と一緒に果たしていきます。ここに、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」(マタイ12223節)と記された預言の成就があります。弟子たちはこれまでイエス様と共に弟子として地上を歩みました。それは十字架の死によって失われました。イエス様を捨てることで弟子としての関係を壊しました。しかし、復活によって、不信仰で罪ある者であっても、死を迎えても失われない神と共にある関係、すなわち救いが与えられました。

202188日)

マタイによる福音書28章1~15節

 イエス様の復活についての証言は聖書の中でとりわけ重要な箇所です。しかし復活ほど福音書によって記事が異なっている箇所はありません。共通しているのは「墓が空であった」ということと、み使いがイエス様の復活を告げたこと、証言者は婦人たちであったことです。それらに福音書ごとに他の証言を加えて、復活の意味を伝えようとしています。マタイ福音書は、復活の記事を出エジプト記の、神様が葦の海を割ってイスラエルの民を救ってくださったことと結び付けて理解しています。そのために、復活の時を夜中にし、婦人の証言者をマリア(ミリアム)に限定して紹介して、神様の恐れるべき御業である復活を、「死から命へ」、「(罪の)奴隷から(神の子の)自由へ」、「悲しみから喜びへ」という意味を強調しています。また復活は、イエス様がご自身の力で復活されたのではなく、神様によって「復活させられた」出来事であることを伝えています。それは、イエス様の復活を初穂として続く私たちの復活の希望に直結しています。復活は人には受け入れがたい、理解を超えた恐るべき神の御業ですが、喜びの出来事として信じることなのです。では、どうすれば信じられるのでしょうか。それは、復活されたイエス様がご自身で決められた時と場所において、イエス様とお会いすることによってです。婦人たちは復活されたイエス様にお会いして、復活を喜びとして信じました。弟子たちも、イエス様が指定されたガリラヤで復活されたイエス様に会って復活の信仰へと導かれました。復活の信仰は、理解ではなくイエス様の招きによって与えられます。

202181日)

マタイによる福音書27章57~66節

 十字架で死なれたイエス様をアリマタヤのヨセフという弟子が引き取り、自分の墓へ納めました。これは律法に従った行いです。木にかけられた遺体を夕べまで、つまり翌日までそのままにしておいてはならないということが律法に定められています。イエス様の死が午後3時ごろと伝わっていますから、葬りは大変急いで行われただろうと思われます。しかしそのような事情以上に大切なことがここで証しされています。それは、本当にイエス様は死なれたということです。キリスト教の信仰において、「イエスは死なれた」ということは、大事な信仰告白です。使徒信条には「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り」と死を意味する言葉を重ねて告白しています。イエス様が本当に私たちの罪の贖いのために罪人への神様の裁きを受け、苦しみ死んでくださったことが、私たちの救いの礎だからです。そこで、イエス様の死を証しする「葬り」の聖書の記事はとても大切なことを伝えている箇所になります。イエス様の死が公に複数の人々によって確認されたことを伝えているからです。さらに、マタイによる福音書は、イエス様の葬られた墓に祭司長たちが、イエス様が復活したと弟子たちが言いふらすことのないようにするために番兵をつけて、遺体が盗まれないようにしたことを報告しています。番兵が墓に納められたイエス様を見張ることで、イエス様は仮死状態でもなく、本当に死んでおられることを証しています。しかも復活は弟子たちが遺体を盗んで、民衆に言いふらしたことではないことを証言しています。

2021718日)

マタイによる福音書27章45~56節

 イエス様は遂に息を引き取られます。昼の12時から3時まで全地が暗くなったとは、アモス書89節以下の預言の言葉を想い起させるものです。それは、罪人が裁かれる終わりの日についての預言です。イエス様の十字架において罪人への裁きが起こっているのです。その闇の中でイエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれました。これは詩編222節の言葉です。神に救いを求めても応えてもらえない苦しみの言葉です。イエス様は、私たち罪人の罪を引き受けて、ただお一人神様から本当に捨てられる「罪人の死」を迎えられたのです。イエス様だけが「罪人の死」を受けてくださいました。そのとき、私たちの罪は贖われたのです。もう神様は私たちを罪人として数えられないのです。イエス様の死によって、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。それは、神様と私たちを隔てるものが無くなったことを意味しています。地震や岩が避ける出来事は、神様の臨在を示すものです。神様が私たちに臨めば、罪人である私たちは耐えることができません。罪を裁かれ死ぬのです。しかし、この時は墓が開いて死者が復活したと記されています。死の方が退いて、いのちが与えられたのです。これはイエス様に続く復活のいのちを示しています。その時、信仰から最も遠いところにいたイエス様の十字架の見張りをしていた百人隊長に神様から信仰の言葉が与えられました。神様が私たちと共にいてくださる新しい歴史、救いの完成へと向かう歴史がこの日始まったのです。

2021711日)

マタイによる福音書27章32~44節

 福音書は十字架で死なれたイエス様を伝えるために記されました。マタイによる福音書の十字架の記事は、他の福音書と比べると旧約聖書の預言の引用などはなく、事実をそのままに記している印象があります。その中で、マタイによる福音書が丁寧に記したのは十字架につけられたイエス様を見た人々の言葉です。人々がイエス様をののしり、侮辱した言葉が記されています。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗たちもイエス様をののしりました。繰り返されているのは、「自分を救え」、「十字架から降りて来い」という言葉です。さらにマタイによる福音書はこれに「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と記しています。イエス様の宣教の初めに、荒野でうけられた悪魔の誘惑を思い出します。しかし真に神の子であるイエス様は、ご自分を十字架から降ろされませんでした。ご自分を救うことができなかったのではなく、救わないことを決意してくださっていたのです。もしも、イエス様が十字架から降りられたなら、代わって神さまの裁きを受けるのは、私たち罪人の方です。「他人」である私たちを救うために、イエス様はご自分を救うことをなさらなかったのです。ここに、救い主の愛があります。そして、それは他ならない父なる神の御心でした。神様の御心に従ってイエス様は十字架にかかってくださったのです。人々のののしり、侮辱する言葉を、まさしくそのままに現実にお引き受けくださったことによって、私たちに救いが与えられたのです。

202174日)

マタイによる福音書27章15~31節

 祭りの時に、民衆の希望する囚人を特赦するという習慣がありました。当時、評判となっていたバラバ・イエスという囚人がいました。他の福音書によれば強盗と殺人の罪を犯した男です。ピラトは民衆に問います。「どちらを釈放して欲しいのか。バラバ・イエスか、それともメシアといわれるイエスか。」この問いかけは、大きな意味を持つ問いかけとなりました。死をもたらすバラバか、救いをもたらすメシアか、を問いとして福音書は記しました。そして、この世はこぞってバラバを選んだのです。教会はこれらの人々の中に、罪人である自分自身もいるのだと思ってこの記事を読んできました。裏切ったユダ、知らないと言い張ったペトロ、罪のない者の死を願う祭司長たち、深く考えることもしないで十字架に着けろと叫ぶ群衆、無責任なピラト、一人の人を嘲り、傷つけて楽しむ兵士の姿に、どこかに罪人としての自分自身を見い出したのです。それゆえに深く知らされるのです。ここに唯一人じっと沈黙を貫き、この罪に対する神様の裁きを代わって受けてくださっている方がおられる。救い主の沈黙を知って、キリスト者と教会は悔い改めを重ねてきました。罪は神さまに訴えるのです。「罪深く、あなたの愛する子の死を願う、救いようのない者たちを、今こそ裁き、滅ぼすべきではないか。今こそ、完全に彼らを捨て、離れるべきではないか。彼らは神に捨てられて当然のことをしている。この罪から逃れる者はこれまでも、これからも一人もいない。」しかし、神様と救い主であるイエス様の御心は変わりませんでした。ここに神の愛があります。

2021620日)

マタイによる福音書27章1~14節

 イエス様を殺すために、人々はイエス様を総督ピラトへと引き渡しました。そこでイエス様はピラトの尋問を受けられます。その間にイエス様を裏切ったユダの死について福音書は記しています。ユダはイエス様が有罪となったことを知り、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と神殿で告白します。しかしそれに対する祭司長たちの答えは「知ったことではない」でした。祭司の務めは罪を犯した者の贖いのいけにえを神にささげることです。しかし、罪の支配の中で、罪の告白を聞き、神様との間にとりなしをする祭司の務めは失われていました。その結果、悔い改めの機会を奪われ、罪の赦しを得られなかったユダは、自分自身の罪に耐えかねて自殺してしまいます。祭司長たちはユダが投げ込んだ銀貨30枚で外国人のための墓地を買います。それは救い主に関わる預言の成就でした。同時に、この時イエス様に対するピラトの尋問が始まっていました。ピラトの質問にお答えになった以外、御自分に不利な証言に対しては一切お答えになりませんでした。不利な証言に対して、自分の身を守るために抗弁しないイエス様のお姿は、非常に不思議に思われました。なぜなら、まるで有罪判決を望んでいるかのようだったからです。ピラトには祭司長たちがイエスの死を望んでいることは分かっていたことでしょう。イエス様は、ユダのように悔い改める者が侮られ、捨てられることの決してない神の御心による贖いと救いのために、一歩も引かずに十字架の死へと進まれたのです。そこにユダの罪も贖い担われた救い主のお姿があります。

2021613日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...