2022年2月14日月曜日

マタイによる福音書20章29~34節

 二人の盲人が、イエス様がお通りだと聞いて「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。イエス様だけが、彼らの叫びを受け止めてくださいました。イエス様は、彼らを呼び、「何をしてほしいのか」と聞かれます。二人の盲人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えました。イエス様はこの願いを受けて、彼らの目に触れ、見えなかった目を見えるようにして下さいました。目が見えるようになったなら、仕事を得て、自分で生活が出来るというようなことを思っていたかもしれません。しかし、イエス様によって目を開いていただいた時、二人はイエス様に従っていきました。救いを求めてやってきた金持ちの青年(191622)は財産を捨てることができず、従うことができませんでした。弟子たちは自分たちは他の者と違ってイエス様に従ってきたから、より良い報いが与えられることを望み、さらに弟子の中で誰が一番偉いのかを争っていました。盲人たちは救い主の憐みを願うばかりの存在です。彼らの叫びは、あえて強く意訳するならば、「神よ、救い主よ、わたしたちを愛してください」という言葉です。神様を失った罪人の叫びです。神様の愛を見失い、さまよい、背を向けてきた私たちのもとに来てくださった神の子、救い主がイエス様です。盲人たちの叫びこそ、救い主としてイエス様を迎える最もふさわしい声なのです。イエス様はこの罪人の叫びを深く憐れんでくださいました。そしてまことの救いを与えるために十字架にむけて歩みを進められます。

202089日)

マタイによる福音書20章17~28節

 イエス様は3度目の死と復活の予告を弟子たちに告げられました。神様だけが私たちを救うことができるとイエス様は既に丁寧に教えてくださっていました(1916節~2016節)。救いのためにイエス様が十字架にかかり復活されるということは、イエス様こそ罪から私たちを救う神の子であることを示されたということです。しかし弟子たちはイエス様の御心を悟らず、イエス様の救いを昔の偉大な王であったダビデの再来のように理解していました。そこで、弟子たちの間で順位争いが始まります。しかし、私たちを救う神様の御心は既にたとえ話の中で、最初の者にも最後の者にも同じようにしてやりたいと言った主人の言葉(1216節)で示されています。天の国で順位争い程意味のないことはありません。しかし、イエス様は咎めるのではなく、むしろ彼らの姿をそのまま受け入れてくださいました。ご自身の十字架の贖いによって、彼らの中に造られる神の子としての新しい存在を見つめておられたのです。そしてもう一度、隣人を愛することを求められます。救いはイエス様が十字架にかかることによって与えられます。最初の者にも最後の者にも与えられます。もう自分のために何も心配する必要はないのです。自分を捨てて、他の人に仕える、というのではありません。自分のことは主イエスに委ねてしまった身軽さの中で、私たちの仕える生き方が生まれるのです。

202082日)

マタイによる福音書20章1~16節

 ぶどう園の主人は神様、ぶどう園が神の国、労働者は私たちのことを表しています。支払われる「1デナリオン」は、神様の与えてくださる救いを意味しています。この主人は夜明けに出かけて労働者を雇います。何度も出かけます。自分で出かけて、自分で見つけて、自分で対価を約束しています。さらに、賃金を支払う方法まで指示をしています。すべてを自分の意志で定めています。賃金が払われた時に、最初に雇われた者たちが、最後に雇われて1時間しか働かなかった者と同じに扱われたことに文句を言います。それに対する主人の答えから、賃金である「1デナリオン」は労働の対価ではなく、労働者に対する主人の愛と憐みから与えられていることが明らかになります。このたとえ話の大事なことは、一切が主人によって決められ、実行されていることです。「金持ちの青年」(1916節)から本日の「ぶどう園の労働者」のたとえまで、救いについて一貫した主題が語られています。「人は自分の救いを定めることができないが、神にはできる」ということです。だから、何をしたら救われるかと考えるのは見当違いなのです。救いは神様の愛と憐れみによって与えられます。イエス様の十字架によって与えられます。皆、神の国に招かれています。神の国に入れられて、主人の願う労働に励むのです。神様の望む天の国の労働とは、「隣人を自分のように愛しなさい」(1919節)ということです。

2020719日)

マタイによる福音書19章23~30節

 金持ちの青年との問答の後、イエス様は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。人間が自分の善行や捧げもので救いを得ることは「絶対にできない」ということを教えられたのです。しかし「神にはできる」、ということをイエス様は教えられました。救いは神様にかかっているのです。しかし、そのイエス様の真意を理解せずに弟子のペトロは、自分たちは金持ちの青年と違ってイエス様に従っているので、どんな報いをいただけるかと聞きました。この聖書の言葉は教会の中で伝えられてきた言葉です。使徒たちは教会でこのイエス様のお言葉が思い起こされるたびに自分たちの罪深さに打たれたのではないかと思います。何故なら、ペトロたちはイエス様が十字架にかけられるために捕えられた一番大事な時にイエス様を捨てて逃げ出したのです。自分たちも金持ちの青年と同じだ。むしろもっとひどい裏切者だ。そう感じたことでしょう。しかし、報いを求める弟子たちの言葉をイエス様は叱ることも退けることもなさいませんでした。むしろ100倍の報いを受け、永遠の命を受け継ぐと約束してくださいました。何故なら、救いは人間の善行や捧げものによらないように、私たちの罪深さによって取り去られることもないからです。永遠の命を受け継がせるという神様の御心によってのみ定められ、与えられるものだからです。

2020712日)

マタイによる福音書19章16~22節

 金持ちの青年との問答は、救われるための試験ではありません。救いは「善い方」である神様によってのみ与えられるということを徹底して教え、神様が「隣人を愛する」ことを求めておられることを教えておられます。青年は、「どんな善いことをすればいいのか」、「どの掟を守ればいいのか」、「何が欠けているのか」と尋ねます。彼は自分の功徳によって救いが決まると思い続けているのです。しかし、「善い方」、「完全な方」は神様のみです。何をしようと、罪から贖われない限り救いを獲得することはできないのです。自分の力で救いを獲得しようとするならば、神様と同じ「完全」になるしかありません。イエス様は青年の真剣な問いかけを受け止めつつ、その考え方は自分を神様にしようとしている大変な罪に囚われていることを指摘されます。そして、あなたが神様のように完全になりたいのならば、完全に隣人を愛することを妨げているあなたの財産を売り払って施しなさい、と教えられます。それは青年にはできない事でした。神様のように完全にはなれないのです。イエス様の財産を施せという言葉は、青年に自分の力で救われることはできないことを知らせるためのものです。青年は悲しみの中で去って行きました。しかし青年を見送る方こそ、この人間の罪のゆえの過ちを深く悲しまれ、私たちの救いのために十字架にかかり、罪を贖い、救いを与えてくださる神の子、救い主です。

202075日)

マタイによる福音書19章13~15節

 イエス様に手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れてきました。手を置いて祈っていただくのは、神様の祝福をいただくためです。日本でも偉いお坊さんに触れてもらうと無病息災のご利益があると信じられることがありますし、七五三や節句の祭りも子供の健やかな成長を願う儀式です。この時、イエス様の元に子どもを連れてきた人々も、そういった素朴な思いで手を置いて祈っていただくために来たのです。しかし、弟子たちは親たちを叱って、イエス様に近づくのを遮りました。

 今日読みましたところは、多くの場合この後の「金持ちの青年」の話と結び付けて読まれることが多い箇所です。もちろんそれは大事な読み方です。同じ話を記しているマルコとルカの福音書も金持ちの青年の話を続けて書いています。子どものような者が神の国に受け入れられ、一方で金持ちの青年は財産を捨てることができなかったので、神の国に入ることができなかった。単純に言えばそういう解釈です。ただ、マタイによる福音書だけは、この話を前回の離婚についてのイエス様の教えが語られたことと結びつけています。そこは、実は重要な違いです。

 離婚についての教えは、「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。…受け入れることのできる人は受け入れなさい」というイエス様の言葉で終わっていました。つまり、ここでマタイによる福音書が記すのは、離婚についてイエス様が示された神様の御心によって始まる隣人との祝福の関係を受け入れられない人の姿を弟子たちの態度によって示されています。

 人々がイエス様の元に子どもたちを連れてきたのは、ある意味では身勝手な信仰によるものです。弟子たちのようにイエス様に従っているわけではなく、イエス様の都合も考えずにやって来て、祝福をいただいたらさっさと帰っていくのです。そんな身勝手な人にお忙しいイエス様が付き合う必要はない。自分や家族のことばかりで、教会で奉仕することもない人々のことが我慢できなくなって、責めるようになるのです。神様との関係を妨げる、「つまずき」となってしまいます。

 そんな弟子たちにイエス様は言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。」子供たちは「連れて来られて」いるのですが、それをイエス様は、子供に「来させなさい」、子供を「妨げてはならない」という言い方をされました。イエス様は、子供たちへの祝福を求めている親たちの思いをそのまま認め受け入れておられるのではありません。偉いお坊さんに触れてもらって無病息災を願ったり、七五三に子供の健やかな成長を願ってお参りをするような思いを受け入れて叶えてあげようとしておられるわけではないのです。ご自身の御心をもって子供たちを喜んで迎え入れ、祝福を与えようとしておられます。

「天の国はこのような者たちのものである」という言葉は、子供を理想化して言っておられるのではありません。神様の御心を受け入れることのできる恵まれた人は、神様に受け入れられている恵みをいただいくことに土台があることを教えられるためです。子供たちは、親に連れて来られるままにイエス様のもとに来ました。そしてイエス様が受け入れ、祝福して下さるなら彼らは祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰ることになるのです。つまり彼らはイエス様によって与えられる神様の祝福を全く受動的に、ただ受けるのみです。

連れて来られた子供たちには、離婚についてファリサイ派や弟子たちが抱いていたような祝福を受けたり、拒んだりする権利の主張というものがないのです。神様に対して、交換条件と言うか、自分はこれだけのことをしている、だから、あなたの結びあわせてくれた夫と、妻と離縁する権利がある。これだけのことをしているのだから、私は神様に祝福を要求する権利があると主張する。そういったことが全く出来ない者、ただ神様の恵みをいただくしかない者です。イエス様はそのような子供たちを喜んで迎え入れて下さり、手を置いて祝福して下さるのです。天の国、神様の恵みのご支配はこのようにして与えられるのです。

2020621日)

マタイによる福音書19章1~12節

 イエス様に敵意をもつファリサイ派の人々が離婚について質問をしました。何か理由があれば離婚をしても律法に適っているか、という質問です。ここで問題となっている律法は、申命記241節のことです。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。律法の中で離婚について教えているのはこの箇所だけです。非常に厳格な人々は「恥ずべきこと」を姦淫の罪として解釈しました。別の学者は「恥ずべきこと」を言葉と解釈しました。どんな小さな言葉でも夫が気に入らないなら離婚できると解釈したのです。また別の解釈では、他に気に入った女性が現れたら、今の妻を「気に入らなくなる」ので離婚できるとまで言っています。それぞれの主張をする者は相手の解釈を批判していました。そこで、イエス様はどの立場をとられるのか、と試そうとしたのです。

 イエス様のお答えは、それらの解釈とは全く違いました。イエス様は創世記の御言葉をもって、結婚の深い意義を示されました。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女にお造りになった。」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」ファリサイ派の人々が「どのような理由があれば離婚できるのか」と聞いたのに対して、結婚は神の意思に基づいている、とお答えになったのです。そして神の意思に基づいて一体となったものを人は離してはならない、と言われました。

 イエス様が示されるのは、離婚の是非ではありません。根本には、「今、この人と共にいるのはなぜか」ということを言われています。結婚しているのは、神様がお命じになったからであり、それを恵みとしてお与えくださるのです。それは私たちと隣人との関係にも及ぶ事柄です。

イエス様の答えを聞いて、ファリサイ派の人々は、何故離婚ついて律法は命じているのか、と問いただしました。それに対するイエス様の答えは、命じているのではなく、「許したのであって、初めからそうだったのではない」でした。何故許されているのかと言えば、「あなたたちの心が頑固なので」と言われます。この頑固さは、罪の結果もたらされたものです。離婚は人間の罪によって生じたと言われるのです。そして、離婚を許さなければ、共に生きていくことができず、立場の弱い側を残酷な事態へと追い込みかねない人間の深刻な罪に対してモーセが示した手立てなのだ、と言われるのです。

 イエス様は律法を否定されてはいません。しかし、律法を権利のように考える人々に、離婚は決して権利として主張できるものではなく、離縁状を持たせろとモーセが命じたのも夫の身勝手な振る舞いから妻を守るためなのです。「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と言われます。根本には夫婦という神様によって「一体」とされた大切な隣人との関係をも破壊する人間の罪があります。

 イエス様の答えを聞いた弟子たちの中には、「妻を迎えない方がましです」という本音が漏れました。イエス様は弟子たちに「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」と教えられます。「恵まれた者」とは「与えられている者」という意味です。神様から賜物を与えられている人だけ、と言われるのです。イエス様は結婚に神様のご意思があることを明らかにされました。その神様の御心を受け止めることが信仰です。

 人間に頼る関係は脆いものです。結婚ですら、人間の誠実さによって支え切れないのです。それは結婚に限りません。結婚するにせよ、独身であろうとも、隣人との関係は神様の御心が与えてくださる賜物なのです。それを恵みと信じることができない「頑固」の罪のために恵みを喜べない私たちに、神様はイエス様を与えてくださいました。神様の恵みを、喜びをもっていただく人として、私たちを新しくしてくださるのです。

2020614日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...