2022年1月6日木曜日

マタイによる福音書18章21~35節

 イエス様にペトロが質問をします。「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエス様は「七の七十倍までも赦しなさい」と言われて、たとえ話をなさいました。先週一緒に聞いた「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉で始まるイエス様の教えと明らかに関係しています。つまり、ここも「小さな者を受け入れる」という教会への教えが続いているところです。先週の箇所では罪を犯した兄弟への忠告が教えられていました。それに続けて、たとえ話でイエス様は兄弟を赦すことを教えられます。

 たとえ話は、主君に対して絶対に返済不可能な莫大な借金を負っていた家来が、主君の憐みによって借金を帳消しにしてもらいます。ところが、その家来は少額を貸していた同僚に返済を迫って彼を牢に入れてしまいます。それを聞いた主君は怒って、「不届きな家来だ。…わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言い、家来を牢役人に引き渡します。

 イエス様のたとえ話は、赦すことの「本質」を語っておられます。赦しの根拠を教えておられます。それは私たちの赦しについての考えを根底からひっくり返すようなことです。最初のペトロの質問では、「何回、どこまで赦すべきか」を聞いたのに対して、イエス様は、「なぜ赦すべきか」を語っておられます。

 たとえ話で家来が主君に対して負っていた借金は、私たちの神様に対する罪を表しています。自分では償うことのできない、解決できない罪を神様に赦していただきました。だから、兄弟を赦すのは、「当然のことだ」、「当たり前だ」とイエス様は語られます。

 私たちが兄弟の罪を赦すのは、自分の罪が神様によって赦されたからです。自分が神様の憐みをいただいているから、自分も人を赦すのです。人を赦すということは私たちの「何回なら赦せるか」という事情や決心に根拠があるのではない、ということです。「七の七十倍まで赦しなさい」という言葉は、もちろん490回赦しなさいということではありません。無限に赦しなさい、ということです。何故なら、人を赦すことは、決意や努力に根拠を持つものではないからです。

人が自分に対して犯した罪と比べものにならない大きな罪を神様に赦されていることを、本当に信じるならば、「七の七十倍まで赦す」ことが、当たり前になる。それがこのたとえ話でイエス様が語られることです。

 ペトロの言う「七回まで」というのとイエス様の言われる「七の七十倍まで赦す」ことの違いは、回数や程度の問題ではありません。「本質」の違いです。「赦す」ことの意味そのものが違っているのです。この違いは、罪の支配と「天の国」(181)という全く違う「質」に由来していることなのです。

 18章の一番初めの弟子たちの質問は、「天の国でいちばん偉いのは誰か?」でした。それに対してイエス様がお答えになった「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国にはいることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」という御言葉の深い意味が私たちにも少しずつ啓かれてきます。

神様の憐みと赦しの恵みによって生かされるところが天の国です。天の国を満たす神様の御心は「憐れみと赦し」です。「心を入れ替える」とは、神様の憐みと恵みの下で生きる「本質」が変わるということです。子どもが与えられたものをいただいて生きるように、神様の憐みと赦しを食べるように、いただくこと無しに天の国で生きることはあり得ないのです。そして、神様の憐みと赦しに生かされた者にとって、赦しは果たすものではなく、神様の憐みと赦しの恵みの下で生まれてくるものなのです。食べたもので生かされるように、食べたもので力が湧くように、まことの父である神様の憐みと赦しによって新しいいのちに生かされ、赦しが湧いてくる。そんな神様の子どもが天の国で一番なのです。

「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(185)とイエス様は言われました。神様がまず私たちを赦し、受け入れてくださいました。独り子であるイエス様の十字架によって、罪の支配から解き放ち、神の国の自由を与えてくださいました。その憐れみと赦しの恵みの中で私たちは人を赦すことができます。赦された者だから、赦すことを当然のこととして生きるのです。そこに「七の七十倍」という「兄弟を得」(1815)、兄弟を回復する赦しが生まれます。小さな者を受け入れるとは、赦しを自然に生きることです。

2020524日)

マタイによる福音書18章15~20節

 18章は教会について教えていると言われます。この章の中で、イエス様が特に大事にお話しされてきたのは、「小さい者を受け入れる」ということです。神様が小さい者をどれほど大切に思っておられるかを一匹の羊を探し出すたとえ話を通して教えてくださいました。神様が大切にされる小さな者とは、私自身のことであり、同時に主イエスの名によって出会う隣人たちです。教会は大きな愛の神様によって大切にされている小さな者が集うところです。

小さな者の「小さい」所以は、罪に対する弱さにあります。今日の聖書では、小さい者同士の関りを罪との関係で教えておられます。ここで、兄弟に対して罪を犯した者は「小さな者」です。しかし同時に、罪を犯された者も「小さな者」です。

小さい者を受け入れるということと、罪を曖昧にすることとは違います。罪はイエス様が十字架で私たちの身代わりとなって死んでくださったほどに、神様にとって見過ごしにできない事です。それは小さい者同士の間でも同じです。罪は指摘され、そこから離れることが忠告されます。

しかし、それは「裁く」こととは違います。「裁く」ことではなく「受け入れる」ために忠告をしなさいとイエス様は教えられます。だから、最初の忠告は「二人だけ」で行われます。次も最小の証言者と共に忠告をします。その後、初めて教会に申し出ることになります。教会も裁きの場を設けるのではなく、忠告をします。そして、教会の忠告も聞き入れないなら、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」、と教えられています。

異邦人や徴税人と同様に見なすとはどういうことでしょうか。「異邦人や徴税人」とは、聖書では神の民が交わりをもてない人々を表す言葉です。そうすると、教会の忠告も聞き入れないならば、もう受け入れるわけにはいかないので、教会から除外しなさいということでしょうか。

イエス様は地上において徴税人と食卓を共にされ、ザアカイのような徴税人の頭の家で、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われました。イエス様の十字架と復活の救いは異邦人にとっても救いの光です。それは、罪の赦しの福音です。

 そこで想い起すのが、すぐ前にイエス様が語られているたとえ話です。先週は迷い出た1匹と、1匹を諦めずに探し出す神様に焦点を当てましたが、このたとえ話には、99匹の残された羊たちが登場しています。今日の箇所は、残された99匹となる教会への教えとして聞くことができます。

 教会自身も小さな者の集まりです。だからどんなに心を込めて忠告しても聞き入れられないことが起こります。罪を犯し、そこから離れられない小さな者こそ、100匹の内の迷い出てしまった1匹のことです。99匹の残りの者にはどうすることできないのです。迷い出た羊を連れ帰ってくださるまことの羊飼いであるイエス様を信頼し、お任せしなければならないのです。それは教会にとって痛みを伴う決断かもしれません。なぜなら、それは兄弟を「異邦人や徴税人と同様」に見なすということだからです。小さな者の群れである教会は、決して万能ではありません。罪を離れない迷い出た小さな者が交わりから離れていくことを悲しみつつ受け入れるしかないことが起こります。交わりを絶たれることが起こりますし、教会から罪の内にある人との交わりを離れなければならないこともあります。残された99匹として待たなければならないのです。

 続く18節で語られる「つなぐこと」、「解くこと」も、19節の二人が地上で心を一つにして求めることも、二人または三人がイエス様の名によって集まるところに、イエス様もその中にいて下さるという約束も、残された99匹の羊となる教会へのイエス様の教えです。罪の中に迷い出た小さな者である兄弟を、見つけ、連れ帰ってくださることを神様に祈る、残された99匹である教会への祈りの教えであり、約束であり、励ましです。

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)というイエス様のお言葉を信じて、兄弟が帰ってくることを信じて祈り、共にいてくださるイエス様に励まされつつ待つのです。

2020517日)

マタイによる福音書18章10~14節

 「迷い出た羊」のたとえ話はイエス様が語られたたとえ話の中でも良く知られたものだと思います。マタイによる福音書は、このたとえ話を「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」というイエス様のお言葉と結びつけて記しました。

既に先週読みました6節以下に、イエス様を信じる教会の交わりにおける小さな者の一人をつまずかせることへの警告が語られていました。「つまずかせる」とは、信仰の妨げとなって、神様、イエス様を信じ続けることができなくしてしまうということです。人を「つまずかせる」ことの原因は、その人を「受け入れない」ということです。人を受け入れてないことから、その人をつまずかせる、信仰を妨げるということが起こるのです。どうして受け入れないのか。それは自分自身が神様に受け入れられていることを信じていないからです。

先週は深く触れることができませんでしたが、7節に「つまずきは避けられない」とイエス様は言われました。私たちはつまずきをもたらされたら、それを避けることができない、と言われるのです。つまずきに私たちは対処できないのです。避けることもできない。だからこそ、小さい者にも自分にもつまずかせてはいけない、気をつけなさいと言われます。しかし、避けられないつまずきに神様を、イエス様を見失ってしまったらどうなってしまうのか。人は再び神様の前から迷い出て失われてしまうのでしょうか。

そのことをイエス様は次に続くたとえ話の中で語られていきます。神様にとって、失われた一匹の羊の存在はとても大切なものです。その大切な一匹が失われてしまうことを悲しまれます。その一匹を探し回り、神様の群れへと戻ってくることを何よりも喜んで下さるのです。ここに神様のお姿、小さな者への愛が示されています。そのために、まことの羊飼いとして独り子のイエス様が世に来て下さり、見つけ出して、神様のもとに、私たちが本当に生きることができる父なる神様のもとに連れ帰って下さいます。そして神様ご自身がそのことを心から喜んで下さり、私たちを温かく迎え入れて下さる、そういう恵みがたとえ話によって語られています。

 明らかに、「迷い出た羊」とは、つまずき、失われようとする「小さな者」のことです。18章は教会のことを教えています。神様の御心をもって歩む教会とはどのような群れなのかを教えています。神様の御心のなる教会において、「小さな者」とは私たちすべての人間のことです。教会において「大きな方」は神様の他に何ものもいません。そうであるならば、「小さな者」とは、共に教会に集う仲間のことであるし、同時に私自身のことです。イエス様はたとえ話を通して、はっきりと教会の仲間もあなた自身も誰一人として神様は失ってよいとお考えにはなっていないこと、迷い出た一匹を探し求めて諦められないことを教えてくださいました。最も「大きな方」が、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と言われます。

そして、そのためにイエス様を私たちに与えてくださいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書316節)。確かにイエス様は十字架にかかられ、私たちを救いへと招いてくださったのです。私たちはつまずきを与えてしまうことにも、つまずきを与えられた時にも、あっという間にイエス様を見失い、神様の愛を信じることができなくなってしまいます。本当につまずきに弱い者です。しかし、私たちは見失ってしまっても、悔い改めて帰る道を見つけられなくなっても、神様が、イエス様が私たちを探し出してくださいます。誰一人神様の前から失われはしないのです。それがここでイエス様が語られる真理です。

変わることのない神様の確かな愛のご決意をイエス様は十字架によってあらわしてくださいました。ご自身を私たちの代わりに死に渡してくださいました。だから、私たちは自分が、神様の愛から失われることを心配しなくていいのです。無邪気なほどに、もっと大胆に言えば、幼い子どものように無神経なほどに私たちは天の父である神様の愛を信じ切っていいのです。他の人々も同じ神様の愛の中にいると信じるのです。

イエス様をお与えくださった神様の愛が、つまずきを超えて私たちを集めてくださいます。そこに教会の群れが生まれ、育つのです。

2020510日)

マタイによる福音書18章1~9節

 18章の大きなテーマは「教会」です。イエス様を神の子、救い主と信じる信仰を土台とする教会とはどのようなものかを示していきます。

今日の箇所はまず弟子たちの問いかけから始まります。「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか。」「天の国」というのは、この地上と別にどこかにある国ということではありません。「神様の支配」を意味しています。神様の御心に従うところ、ということです。神様の御心では、(自分たちの中で)だれが一番偉いのですか?と弟子たちは聞いたのです。

そこでイエス様は子供を呼び寄せて、「心を入れ替えて子供のようになる者」、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者」、「小さな者をつまずかせない者」、「自分自身をつまずかせるものを取り除く者」という4つのことを教えられます。

マタイによる福音書の特徴は、4つのことを結び付けて記していることです。実は、他の福音書ではこれら別々の出来事の中でイエス様が語られた言葉として記されています。それをマタイによる福音書はあえて結び付けて記しました。

まず、「子供のようになる」というのは、子供は純粋で汚れていないから、そのように生きなさいというのではありません。もともと、弟子たちの「だれが一番偉いのか」という問いかけから始まっていますが、大人と比べて子供はよりはっきりと「一番」を意識します。謙遜な存在ではありません。「誰が一番か」という問いかけは、実は子供の間でこそよくあることです。その意味で弟子たちのしていることは実に子供じみています。それでは、どういう意味で「心を入れ替えて子供のようになれ」とイエス様は言われるのでしょうか。

 もう一つの、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者」という教えは、分かりやすいかもしれません。時として我儘で、迷惑をかけることもあるのが子供です。そのような受け入れにくい人を「イエス様の名のために」受け入れるということです。それが神様の御心なのです。

この受け入れることを求めた教えの広がりを語るのが、続く「小さな者」という言葉で示される二つの教えです。ここ出てくる、「つまずかせる」、あるいは「つまずく」という言葉は、イエス様を信じる信仰を妨げることを意味しています。

「一人の子供」という言葉を「小さな者」と言い換えています。私たちは教会の一員として、私たちの言動がいたらないために、信仰の仲間をつまずかせないこと、家族や友人をつまずかせないことになってはいけない、と考えます。しかし、つまずきの本当の原因はその人を受け入れていないことがつまずきをもたらすのです。イエス様はつまずきをもたらす者こそ不幸だと言われます。

なぜ、受け入れられないのか。それは自分自身が神様に受け入れられた小さな者であることを信じられないからです。ここで手や足を切って捨てろといわれるのは、罪を犯したら切り捨てろというのではありません。それでは、何本手足があっても足りないでしょう。そうではなく、自分という小さな者が受け入れられていることを妨げる原因があるならば、それを捨てて、神様の懐に飛び込みなさいという教えです。

受け入れないことがつまずきをもたらすならば、逆に相手を受け入れることから信仰は生まれ育ちます。それは私たちの信仰の本質にかかわることです。私たちはイエス様の十字架と復活によって、神様に受け入れられていることを知らされました。罪深く小さな私を、最も大きな神様が受け入れてくださいました。そのことを信じる信仰を教会は土台としています。ここに「心を入れ替える」べきところがあります。最も肝心なことは、私たちが人を受け入れる強さを持つことや、神様にとって有益な者であることを示すことではなくて、何よりも神様に受け入れられているということを信じることです。子どもが親の愛を疑わないように、イエス様の十字架と復活によってあらわされた神様の愛のもとに自分が受け入れられていることを、「当たり前のこと」のように信じ、頼るのです。そのような者を神様はご自分の子として確かに重んじてくださるのです。

202053日)

マタイによる福音書17章22~27節

 エス様は再びご自分の死と復活を予告されました。17章は、はじめにイエス様のお姿が高い山の上で光り輝く栄光に包まれた姿となり、神の独り子であることを証しされました。それから再び「よこしまな時代」である私たちの世に戻られ、病を癒され、悪霊を追い、そして救い主はこれから苦難の道を歩んで行かれるのです。

イエス様の予告の言葉を直訳すると、「人の子は人々の手に渡されようとしている。そして、彼らは彼を殺すだろう。そして彼は三日目に復活させられるだろう。」となります。真ん中の「彼らは彼を殺すだろう」と言われる「彼ら」は、「長老、祭司長、律法学者」(1621参照)のことです。しかし、「引き渡される」という言葉と「復活させられる」という言葉は受け身の形になっています。救い主であるイエス様が、人々によって殺されるために「引き渡される」、その背後にはあるのは、神様の御心なのです。神様のご意志がそこにあるのです。父なる神様が独り子であるイエス様を十字架の死へと引渡したのです。それは何よりも私たちの救いのためです。イエス様は父なる神様の御心に従って、罪人の手に引き渡されました。

そうすると、イエス様は父なる神様と罪人である私たちの人間の間で、強制されて十字架にかけられたように見えます。しかし、そうではありません。十字架こそ、イエス様の自由が発揮されているところです。イエス様は強制されてではなく、全く自由に、父なる神の御心に従おうとされます。罪人たちの手にご自身を任せるほどに、自由に振舞っておられるのです。このイエス様の自由を伝えているのが、予告に続いている「神殿税を納める」という話です。

そこには、文字通り「自由」という言葉がでてきます。日本語の翻訳ですと分かりにくいのですが、26節の「子供たちは納めなくてよいわけだ」というイエス様の言葉は直訳すると、「子供たちは自由だ」という言葉です。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」。ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエス様は言われました。「では、子供たちは納めなくてもよいわけだ」。人間の王は、自分の子供たちからは税金を取り立てたりはしない。納税の義務に対して、王の子たちは自由だ。それならばなおさら、父なる神への捧げものについて、神の子は納める義務はないし、自由に振舞えるはずだ、と言われるのです。イエス様ははっきりとここで、「子供たちは自由だ」と言っておられます。対話しているペトロも、そして今、神の子として招かれた私たちも含め、神の子とされている者たちは、自由だと言われたのです。そしてその自由を、人々をつまずかせないために用いられるのです。

 イエス様は、本来は納める必要のない神殿税を「つまずかせないために」納めるほどに自由なのです。イエス様は自由な意志によって、神の御心に従い、十字架への道を歩まれました。私たちを愛して、私たちのために、その命を捨ててくださったのです。この御子の愛によって捕らえられ、この世の定めから解き放たれて自由となった者は、やはり愛する自由を与えられているのです。本当の自由とは、自分の好きなことをできることではなくて、人のために、人の信仰のつまずきとなってしまわないために、配慮していくことができることです。

当時の神殿税は、神殿で行われる罪の贖いの儀式に参加している証しとして納められていました。そこで、神殿税を納めるためにイエス様が魚を用いられたことは象徴的です。魚はキリスト者たちにとって、大切な意味を持つしるしでした。「イエス・キリスト、神の子、救い主」という告白の言葉の頭文字をつなぎ合わせると、「魚」という意味の言葉になったからです。その魚の口に、命の贖い代としての銀貨一枚が備えられたのです。それも、イエス様の分とペトロの分が「一枚」として与えられました。私たちだけでは、罪から私たちを贖うことはできません。しかし、イエス様が、自由に、御自身の命をもって十字架で私たちを贖ってくださいました。贖い主であるイエス様が私たちと一緒におられるから、私たちは罪から解放され、自由とされるのです。

2020419日)

マタイによる福音書 17 章 14~20 節

  17 章は、イエスさまが高い山に、弟子の中で主だった3人を連れて登られ、その山の上で、まぶしい栄光の光に輝かれたという不思議な場面から始まっていました。この場面に立ち会った3人の弟子たちは、その栄光をずっと自分たちの手の中に持ち続け、その経験に浸りたいと願いました。けれども、栄光の姿にお変わりになられたイエスさまは、栄光の姿のままで高い山に留まり続けたのではありません。以前と変わらない普通の人としての姿に戻られたのです。どこにでもいる普通のユダヤ人の顔、お姿に戻られました。そして、弟子たちを連れて山を下りられ、地上の生活へと歩み出されました。そのイエスさまは、いったいどこに向かわれたのでしょうか。それが、今日の箇所に記されている「信仰のない、よこしまな時代」と呼ばれる私たちの生きているその現実の中へと下りられたのです。

一人の男が自分の息子を、イエスさまのもとに連れてきました。てんかんの病で激しく苦しんでいたというのです。彼はイエス様が不在だったので、弟子たちに癒しを願いましたが、弟子たちは癒すことができませんでした。それに対してイエスさまはこう言われたのです。マタイ福音書は 10章に、弟子たちがイエス様から悪霊を追い、病を癒す権能を授けられたことが記されています。授けられた権能というのは、自分の中に不思議な力があるというのではなく、祈りの力です。神さまに祈るのです。祈りの力をイエスさまから授けられていました。けれども、その祈りにおいて不信仰が現れたのです。そこで、イエス様は言われました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

「信仰のない」、「よこしまな時代」はどちらも神様を見失っている様子をあらわす言葉です。「よこしまな」というのは、「曲がっている」という意味で、神様に背を向けて生きているということです。

祈るというのは具体的な信仰の姿です。祈ることと信じることは別々ではありません。信じていないのに、祈るということはあり得なことです。信じているから祈る。祈ることそのものが神さまを信じ、信頼しているのです。弟子たちも、神さまを信じて、この子どもがいやされるようにと祈ったはずです。しかし、その祈りの中で信仰の限界、行き詰まりを経験しているのです。祈ることが虚しく感じたのかもしれません。この祈りは本当に聞かれているのか。神さまがその祈りに応えてくださるのか、疑う心が出てくる場合があります。自分の手に負えない大きな問題や悩みを抱えている中で、神さまにどうか助けてくださいと祈ることがあります。思いがけない試練や困難を前にして、神に祈る他ないときもあります。新型コロナウイルス感染症の脅威に世界中が怯えている今が、まさにそのような時です。キリスト者に祈りが求められています。しかしまさにそこで、神様を見失ってしまうのです。

イエスさまは弟子たちに言われます。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにはできないことは何もない」「信仰が薄い」というのは「信仰が小さくなる」という意味です。それは、神への信頼、イエス・キリストに対する信頼が、だんだん小さくなっていくのです。しかし、「からし種一粒ほどの信仰があれば」とイエスさまは言われます。この世の困難から見れば、私たちの信仰は取るに足らないほどに小さいと思えます。けれども小さくても、そこに真実の信仰があれば、山は動くというのです。祈りが聞き届けられるのです。そこに神さまの御業がはっきりと起こされるのです。なぜなら、救い主は私たちの時代の中に来てくださったからです。

祈りは、「主よ、憐れんでください」と願う声を、イエス様が聞いて憐れんでくださることに支えられています。主の憐れみを信じて祈る、その祈りの生活を今こそ新しくしていきたいと願います。

202045日)

マタイによる福音書17章1~13節

  弟子たちを伴って高い山へ登られたイエス様のお姿が太陽のように光輝いた栄光のお姿に変わったことを伝えています。光輝く姿は、人間が直視することを許されない存在であることを示しています。つまりイエス様がまことに神であることを弟子たちに示しています。そして神様ご自身が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と証しされた大切な出来事です。これは、ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白を神様御自身の証しで裏付けています。ペトロはこの光景を見て、仮小屋を建てましょうか、と言いました。神の子の栄光の姿を地上に止めたいと思ったのでしょう。しかし神様は「これに聞け」と命じられます。また、イエス様ご自身も、復活するまで見たことをだれにも話してはならない、と命じられました。人々に誤った救い主への期待を持たせないためです。神様の心に適う者としてイエス様が選ばれたのは、直視できない神さまの栄光に留まることではなく、高い山を下りて、十字架への道を歩まれることでした。既に、イエス様は必ず苦しみを受けて殺され、復活されることを語っておられます(1621)。聞くべきこととは、天の栄光を捨て、罪人である私たちの世に降られ、私たちの罪のために十字架にかかって死に、三日目に復活される救い主の福音の言葉です。イエス様を神の子と信じ、神として礼拝した私たちは、イエス様の福音を聞き、それぞれの日常でキリストの栄光を信じて信仰者として生きるのです。

2020322日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...