2022年1月6日木曜日

マタイによる福音書18章1~9節

 18章の大きなテーマは「教会」です。イエス様を神の子、救い主と信じる信仰を土台とする教会とはどのようなものかを示していきます。

今日の箇所はまず弟子たちの問いかけから始まります。「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか。」「天の国」というのは、この地上と別にどこかにある国ということではありません。「神様の支配」を意味しています。神様の御心に従うところ、ということです。神様の御心では、(自分たちの中で)だれが一番偉いのですか?と弟子たちは聞いたのです。

そこでイエス様は子供を呼び寄せて、「心を入れ替えて子供のようになる者」、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者」、「小さな者をつまずかせない者」、「自分自身をつまずかせるものを取り除く者」という4つのことを教えられます。

マタイによる福音書の特徴は、4つのことを結び付けて記していることです。実は、他の福音書ではこれら別々の出来事の中でイエス様が語られた言葉として記されています。それをマタイによる福音書はあえて結び付けて記しました。

まず、「子供のようになる」というのは、子供は純粋で汚れていないから、そのように生きなさいというのではありません。もともと、弟子たちの「だれが一番偉いのか」という問いかけから始まっていますが、大人と比べて子供はよりはっきりと「一番」を意識します。謙遜な存在ではありません。「誰が一番か」という問いかけは、実は子供の間でこそよくあることです。その意味で弟子たちのしていることは実に子供じみています。それでは、どういう意味で「心を入れ替えて子供のようになれ」とイエス様は言われるのでしょうか。

 もう一つの、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者」という教えは、分かりやすいかもしれません。時として我儘で、迷惑をかけることもあるのが子供です。そのような受け入れにくい人を「イエス様の名のために」受け入れるということです。それが神様の御心なのです。

この受け入れることを求めた教えの広がりを語るのが、続く「小さな者」という言葉で示される二つの教えです。ここ出てくる、「つまずかせる」、あるいは「つまずく」という言葉は、イエス様を信じる信仰を妨げることを意味しています。

「一人の子供」という言葉を「小さな者」と言い換えています。私たちは教会の一員として、私たちの言動がいたらないために、信仰の仲間をつまずかせないこと、家族や友人をつまずかせないことになってはいけない、と考えます。しかし、つまずきの本当の原因はその人を受け入れていないことがつまずきをもたらすのです。イエス様はつまずきをもたらす者こそ不幸だと言われます。

なぜ、受け入れられないのか。それは自分自身が神様に受け入れられた小さな者であることを信じられないからです。ここで手や足を切って捨てろといわれるのは、罪を犯したら切り捨てろというのではありません。それでは、何本手足があっても足りないでしょう。そうではなく、自分という小さな者が受け入れられていることを妨げる原因があるならば、それを捨てて、神様の懐に飛び込みなさいという教えです。

受け入れないことがつまずきをもたらすならば、逆に相手を受け入れることから信仰は生まれ育ちます。それは私たちの信仰の本質にかかわることです。私たちはイエス様の十字架と復活によって、神様に受け入れられていることを知らされました。罪深く小さな私を、最も大きな神様が受け入れてくださいました。そのことを信じる信仰を教会は土台としています。ここに「心を入れ替える」べきところがあります。最も肝心なことは、私たちが人を受け入れる強さを持つことや、神様にとって有益な者であることを示すことではなくて、何よりも神様に受け入れられているということを信じることです。子どもが親の愛を疑わないように、イエス様の十字架と復活によってあらわされた神様の愛のもとに自分が受け入れられていることを、「当たり前のこと」のように信じ、頼るのです。そのような者を神様はご自分の子として確かに重んじてくださるのです。

202053日)

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