イエス様は再びご自分の死と復活を予告されました。17章は、はじめにイエス様のお姿が高い山の上で光り輝く栄光に包まれた姿となり、神の独り子であることを証しされました。それから再び「よこしまな時代」である私たちの世に戻られ、病を癒され、悪霊を追い、そして救い主はこれから苦難の道を歩んで行かれるのです。
イエス様の予告の言葉を直訳すると、「人の子は人々の手に渡されようとしている。そして、彼らは彼を殺すだろう。そして彼は三日目に復活させられるだろう。」となります。真ん中の「彼らは彼を殺すだろう」と言われる「彼ら」は、「長老、祭司長、律法学者」(16:21参照)のことです。しかし、「引き渡される」という言葉と「復活させられる」という言葉は受け身の形になっています。救い主であるイエス様が、人々によって殺されるために「引き渡される」、その背後にはあるのは、神様の御心なのです。神様のご意志がそこにあるのです。父なる神様が独り子であるイエス様を十字架の死へと引渡したのです。それは何よりも私たちの救いのためです。イエス様は父なる神様の御心に従って、罪人の手に引き渡されました。
そうすると、イエス様は父なる神様と罪人である私たちの人間の間で、強制されて十字架にかけられたように見えます。しかし、そうではありません。十字架こそ、イエス様の自由が発揮されているところです。イエス様は強制されてではなく、全く自由に、父なる神の御心に従おうとされます。罪人たちの手にご自身を任せるほどに、自由に振舞っておられるのです。このイエス様の自由を伝えているのが、予告に続いている「神殿税を納める」という話です。
そこには、文字通り「自由」という言葉がでてきます。日本語の翻訳ですと分かりにくいのですが、26節の「子供たちは納めなくてよいわけだ」というイエス様の言葉は直訳すると、「子供たちは自由だ」という言葉です。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」。ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエス様は言われました。「では、子供たちは納めなくてもよいわけだ」。人間の王は、自分の子供たちからは税金を取り立てたりはしない。納税の義務に対して、王の子たちは自由だ。それならばなおさら、父なる神への捧げものについて、神の子は納める義務はないし、自由に振舞えるはずだ、と言われるのです。イエス様ははっきりとここで、「子供たちは自由だ」と言っておられます。対話しているペトロも、そして今、神の子として招かれた私たちも含め、神の子とされている者たちは、自由だと言われたのです。そしてその自由を、人々をつまずかせないために用いられるのです。
イエス様は、本来は納める必要のない神殿税を「つまずかせないために」納めるほどに自由なのです。イエス様は自由な意志によって、神の御心に従い、十字架への道を歩まれました。私たちを愛して、私たちのために、その命を捨ててくださったのです。この御子の愛によって捕らえられ、この世の定めから解き放たれて自由となった者は、やはり愛する自由を与えられているのです。本当の自由とは、自分の好きなことをできることではなくて、人のために、人の信仰のつまずきとなってしまわないために、配慮していくことができることです。
当時の神殿税は、神殿で行われる罪の贖いの儀式に参加している証しとして納められていました。そこで、神殿税を納めるためにイエス様が魚を用いられたことは象徴的です。魚はキリスト者たちにとって、大切な意味を持つしるしでした。「イエス・キリスト、神の子、救い主」という告白の言葉の頭文字をつなぎ合わせると、「魚」という意味の言葉になったからです。その魚の口に、命の贖い代としての銀貨一枚が備えられたのです。それも、イエス様の分とペトロの分が「一枚」として与えられました。私たちだけでは、罪から私たちを贖うことはできません。しかし、イエス様が、自由に、御自身の命をもって十字架で私たちを贖ってくださいました。贖い主であるイエス様が私たちと一緒におられるから、私たちは罪から解放され、自由とされるのです。
(2020年4月19日)
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