2021年10月28日木曜日

マタイによる福音書16章21~28節

 神様によって示され、シモンがイエス様のことを「救い主、生ける神の子」と告白した「このとき」から、イエス様は十字架の苦しみについて弟子たちに伝え始められました。イエス様は私たちの罪の贖いとして十字架で死なれ、復活される救い主です。するとシモン・ペトロがイエス様をわきへお連れしていさめ始めました。ペトロのイエス様を慕う心から出た行いですが、イエス様はそこに「サタン」の誘惑を見て、ペトロではなくサタンに対して引き下がることを命じられます。イエス様が救い主であることが人に啓示された救いの支配に対してサタンが間を置かずに誘惑の手を伸ばしてきたのです。かつて荒野でイエス様が経験されたサタンの誘惑がここで繰り返されています。十字架にかからずに「全世界を手に入れる」誘惑です。イエス様はそれを拒絶なさり、併せて弟子たちに「自分の十字架を負って」従うことを求められます。十字架は神様が与えられるものです。イエス様には、罪の贖いのための苦しみの十字架があり、私たちにはイエス様を「救い主、わが神」と信じる十字架があります。この十字架を背負い続けて、神様から離れずに従うことを求められました。イエス様を信じる十字架が重荷となって私たちを苦しめるかもしれません。しかし、十字架を負って従う先に神様のくださる命が約束されています。

2020315日)

マタイによる福音書16章13~20節

 イエス様は弟子たちに、人々がイエス様のことを何と言っているかを聞かれました。弟子たちが答えた中で、「エリヤ」も「エレミヤ」も旧約聖書に記されている大預言者です。人々がイエス様に向けている評価は大変に高い評価と期待が向けられていることを意味しています。そこでイエス様は、弟子たち自身はイエス様を何者だと思っているのかをお尋ねになりました。シモンが「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」と答えました。イエス様は、シモンの答えは神様によって与えられた答えだと言われます。そしてイエス様を「救い主、神の子」と告白する神様が与えてくださった信仰の上に教会を建てると言われました。「イエス様はあなたにとって何ですか?」と私たちも一人ひとり問われており、そして今も神様は「イエス様は私の救い主、私の神です」という信仰を与えてくださいます。私たちがイエス様を救い主と信じる信仰は神様の賜物です。それは奇跡にすがるのでもなければ、聖書の言葉を学ぶだけでも得られません。エリヤでもなくエレミヤでもなく、「私の救い主」であるキリスト・イエスを迎える信仰の上に建つのが教会です。教会は委ねられた「天の国の鍵」であるイエス様を救い主と告白することを通して、神様の恵みへと人々を「つなぎ」、罪の支配から「解く」、御業に仕えるのです。

202038日)

マタイによる福音書16章5~12節

 しるしを求めたファリサイ派とサドカイ派の人々との問答の後、イエス様は弟子たちに彼らの「パン種」に注意しなさいと教えられました。しるしを求めることは、熱心な信仰のように思えるが、実際は神様に背を向けているからです。しかし弟子たちはイエス様の言葉が理解できずに、パンを用意していないことを叱っているのだと勘違いしました。そのような弟子たちを「信仰の薄い者」と評されました。そして弟子たちが体験した神様の恵みの出来事である五千人にパンを与えた奇跡と、四千人にパンを与えた奇跡を思い出させます。「信仰が薄い者」とは、神様の恵みを忘れてしまう者のことです。私たちの人生の歩みを、ボートを進ませる様に譬えた方がいます。オールを漕ぐと、漕ぐ人の背中の方にボートは進みます。つまり、ボートを進ませる人が見ているのは後ろの風景です。後ろの風景の中に、目印を見いだして、それを頼りに真っすぐにボートを進めることができます。人生において目印となって私たちが真っすぐに神様を信じて進むために、恵みのしるしは与えられています。信仰薄い者は、後ろが気になって、目印を見失ってしまう(忘れてしまう)のです。神様は、イエス様の十字架と復活という確かな恵みのしるしを与えてくださいました。十字架と復活のしるしを想い起し、進むことが信仰なのです。

202031日)

マタイによる福音書16章1~4節

 イエス様が救い主なのか、神様から遣わされた方なのかを試そうとして、天からのしるしを求めた人々がいました。その人々にイエス様は痛烈な言葉を返しておられます。天からのしるしを求めるのは信仰熱心なように見えますが、実際は「よこしまで神に背いた時代の者たち」として、神様に背を向けていることをあらわしています。しるしをもって人々を驚かせて、イエス様を救い主として信じさせればいいと誘惑したのは、荒野でイエス様を試した悪魔でした。天からのしるしがあれば信じるというのは、悪魔に支配された心なのです。そのように、人は悪魔の支配する時代の中にいます。しかし、神様はその時代の中に独り子を送ってくださいました。しるしを求めることは神様を試すことで、それは罪です。しかし、このような罪に支配されている私たちを救うために、救い主は来てくださったのです。そして、しるしを与えてくださいます。それを信じるならば、「夕焼けだから、晴れだ」と言えるように、神様の救いの時は来ていると信じるためのしるしです。それを「ヨナのしるし」と言われます。これは旧約聖書のヨナ書のことを示して、イエス様ご自身が十字架で救いの御業を成し遂げられた後、三日目に復活なさることを言われています。死からの復活という神様によるしるしが与えられます。唯一のしるしであるイエス様の復活によって、私たちは神様の救いを信じ、よこしまな時代から神様の救いの完成へと向かう新しい時の始まりを知ることができるのです。

2020216日)

マタイによる福音書15章29~39節

 既に読んできたマタイ福音書の記事を思い出させるような箇所です。「山に登って座って」というのは、山上の説教でのイエス様のお姿を思い起こさせます。大勢の群衆が病人を連れて来て、彼らをイエス様がいやされたことも、これまで何度か読みました。救い主の到来を意味する光景として、115節でイエス様が示された光景です。そして四千人に食べ物を与えた奇跡は、5千人に食べ物を与えた奇跡とそっくりです。しかし、これまで読んできた記事を思い起こさせることにこの箇所の意味があります。同じことであることが大事なのです。なぜなら、このイエス様の恵みの御業にあずかったのは、異邦人だからです。マタイ福音書は、群衆が「イスラエルの神を賛美した」と記しています。これは異邦人がイスラエルの神を賛美したということです。この箇所の前でイエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24)と言われました。しかし、カナン人の婦人の言葉によって、神の憐みは異邦人にまでも及ぶことが明らかになりました。神様の御心を知って、イエス様はユダヤ人の間でなさった神様の憐みの御業を異邦人の間でも、全て行ってくださったのです。イエス様は、ユダヤ人だけの救い主ではなく、異邦人にとっても、そして私たちにとっても救い主として来られたのです。

202029日)

マタイによる福音書15章21~28節

 イエス様は異邦人の住むティルスとシドンの地方にわざわざ行かれました。イエス様が異邦人の地に行かれなければカナンの女に出会うことはなかったでしょう。偶然の出会いではなく、カナンの女の「憐れんでください」という願いを聞くために赴かれています。にもかかわらず、女の願いにイエス様は沈黙されています。弟子たちの言葉を受けて、ようやくイエス様が答えられたのは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という神さまの御心を明らかにされた言葉でした。女の願いのためにここまで来られたイエス様ですが、神様の御心はまだ癒しを命じておられないのです。イエス様は神様の御心に従順であり続けられました。ですから、神様の御心を沈黙の中で問い、イエス様も憐みを求めてくださっていたのではないでしょうか。やがて神様は女に見事な信仰の知恵を与えられました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」主人である神様の憐みは食卓からこぼれる程に豊かです、と言ったのです。この神様が女に与えた知恵の言葉は、神の子であるイエス様を心から喜ばせました。神様の憐みの御心を知ったイエス様は、心から感心して、喜びをもって女の願いどおりに娘をいやしてくださいました。

202022日)

マタイによる福音書15章1~20節

 「イエスは、何者か?」が大きなテーマとなっている箇所を読んでいます。エルサレムの宗教的な指導者たちにガリラヤで活動されている新進のラビとしてイエス様のことが伝わったのでしょう。そこでイエス様の言動を監査するためにファリサイ派と律法学者がやってきます。そこで彼らは、イエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わないことを見咎めました。当時のユダヤ教では「汚れ」を清めることが重視されていました。「汚れ」は、神様にふさわしくないことを意味します。異邦人や罪人と一緒に過ごしたなら、彼らの汚れを洗い落とさないといけないと考えて、熱心に洗うのです。その根拠は「言い伝え」でした。人の言葉でした。それに対して、イエス様は「神の言葉」に立って反論されます。神の言葉よりも人の言葉を重んじる時、救いは「人の功績」によって決まります。しかし、救いは神様の御心によって定められます。神様は人を愛し、神の言葉としての律法を与えてくださいました。人を神の祝福から遠ざける行いを戒められました。それは人を救うためです。神の言葉を人の言い伝えで曲げてしまい、それを神の言葉よりも大切にするのはおかしなことです。イエス様は、神の子として神様の御心を最もご存知です。だから、律法をお与えになった神様の救いの御心もよくご存じです。体の外から汚れがくるのではありません。私たち自身が罪によって神様から離れているのです。このような私たちの救いのために、神の言葉の成就として来られたのがイエス様です。

2020119日)

マタイによる福音書14章22~36節

 五千人に食べ物をお与えになったイエス様の奇跡に触れた弟子たちは、大きな興奮を感じていたことでしょう。パンを配るたびに人々から感謝されたことでしょう。しかし、一見すると熱心に見える彼らの思いは、まことの救い主であるイエス様を見失っているものでした。そこでイエス様はすぐに弟子たちを群衆から引き離して、彼らだけで向こう岸へ向かわせられました。しかし、向こう岸に向かう途中で強い風のために進むことができなくなってしまいました。イエス様の命じられた言葉に従って、舟を進ませようとしても風と波のために動けません。大事なのは、この時イエス様が一緒に舟に乗っておられないということです。御心を信じて出発して、困難に出会った時、イエス様の導きを求めて祈ります。しかし、祈りに手ごたえがないこともあります。イエス様の御心は「向こう岸へ行け」と、はっきりしているのに、思うように進めないし、助けを求めてもイエス様のお姿は見えない。そこにイエス様が近づいて来られます。救い主のお姿がここにあります。奇跡をもって人々の称賛を集めるところに立った信仰は救い主を見失わせ、興奮に心を奪われます。それは波を恐れて沈みそうになったペトロのように、私たちをつまずかせます。しかし、まことの救い主であるイエス様は、その時に最も近くにいて手を伸ばして私たちを救ってくださるのです。神様を見失い、他のものに心を奪われる罪人である私たちを引き上げ、救うために来てくださったのが救い主です。このような救い主に出会った時に、「本当に、あなたは神の子です」と告白する信仰が与えられたのです。

2020112日)

マタイによる福音書14章1~21節

 領主ヘロデはイエス様を洗礼者ヨハネが生き返ったのだと理解しました。ヘロデが捉われたのは「恐れ」でした。自分の罪を責められることを恐れ、ヨハネを殺すことで人々から受ける非難を恐れ、宴会の席で恥をかくことを恐れました。救い主の到来を迎えない者は、どんなにこの世で力があるように見えても、恐れに支配されています。そして恐れる人に群がり、その宴会の席で腹を満たす人々がいます。その宴会の行きついた先にあったのが「死」でした。一方で、イエス様はヨハネが殺害されたことを聞いて、人里離れた所に一人で行かれました。神の言葉に生き、死んだ預言者のことは心痛める出来事だったのでしょう。ゲッセマネの祈りを思い起こさせる父なる神との祈りの時を持ったのでしょう。そこに群衆が後を追ってきます。父なる神と共に救いのご決意を新たにされたイエス様は、救い主として人々を深く憐れまれました。そして、一つの奇跡をもって神様の恵みをあらわしてくださいました。5千人に食べ物を与えた奇跡は、ヘロデのように恐れに支配され、恐れる者を食い物にして死を生み出すこの世の支配に対して、神様の憐みの支配を明らかにされました。ヘロデの宴会も、イエス様の奇跡も、どちらも腹を満たされた者がいます。しかし、「死」を楽しむこの世の支配と、私たちの僅かなものを「良い言葉」によって祝福して、喜びをもって満たしてくださる神様の支配は、まるで違うものでした。

20191215日)

2021年10月7日木曜日

マタイによる福音書13章53~58節

 イエス様は故郷(ナザレ)に行かれました。里帰りではなく、他の町や村へ行かれたことと同じで、福音を告げ、神の国の到来を教えるためでした。会堂で教えられたイエス様の姿に、ナザレの人々は驚きました。この驚きは、あり得ないものを見たというような強い驚きです。そして、繰り返して、「一体どこから得たのだろう」と言いました。自分たちはイエスをよく知っていて、家族のことも知っている。だからこんな力ある教えと奇跡の力をイエスが持っていることなどありえないはずだ、と言い合ったのです。この人々の姿を聖書は「不信仰」と呼びます。なぜなら、救い主の到来を迎えなかったからです。自分たちを驚かせた教えや知恵や奇跡よりも、「自分たちは知っている」ということに留まったのです。そのために、イエス様も奇跡をあまりなさいませんでした。おそらく憐れみの心から、僅かな病人を癒された程度で、それ以上の奇跡をお見せにならなかったのでしょう。イエス様は神様の独り子であられ、私たちの罪をすべて背負って、十字架にかかって死んで下さったという、人間の常識をはるかに超えておられるお方であるということです。私たちの考えの中に救いはありません。あくまで私たちの考えの中でイエス様を理解しょうとすると、つまずきが生じます。信仰は、私たちの知っている世界をはるかに超える神様のもとから来られたイエス様を迎え、慣れ親しんだ世界からイエス様と共に生きる新しい世界へと出ていくことです。

2019128日)

マタイによる福音書13章47~52節

 たとえ話を語られて後、イエス様は弟子たちに「これらのことがみな分かったか」と弟子たちに聞かれました。天の国のたとえ話を通してイエス様は、一つは「古いもの」として、救い主がいなければ救いを求めても行き詰ってしまう私たちの姿を教えてくださいました。それが、たとえ話の中に取り残される群衆の聞き方でした。そして弟子たちには、救い主をお迎えしたものに開かれている「新しいもの」として、救い主をお送りくださる神様の御心を天の国の秘密として教えてくださいました。47節からの最後のたとえ話は、弟子たちに向けて語られています。弟子たちは「人間をとる漁師」として招かれました。しかし人々を救われる者と救われない者に選り分ける者ではありません。救いを定めるのは神様です。救い主としてイエス様が来られ、十字架において私たちの罪を贖ってくださった時、神様の御心は、私たちを救う者と、滅ぼす者とに分けることではなく、世を救うことのみにあることが明らかになりました。天の国のことを学ぶとは、独り子を与え、私たちを救うという神様の御心を知ることです。そのような人をイエス様は学者に喩えられました。イエス様の弟子は、救われるために何をすべきかを学ぶのではなく、私たちを救うために神様が何をしてくださったかを知らされ、救いをいただき、自分の倉から取り出す学者のように人々に証しする者です。

2019121日)

マタイによる福音書13章44~46節

 小さなたとえ話が二つ続いています。たとえ話の言葉のみで読むと、畑に隠されていた宝と高価な真珠が神様の救い、畑で宝を見つけた人と商人が神様の救いを求める人にたとえられているように聞こえます。神様の救いは、全財産を売り払ってでも手に入れるべきものです。しかし、それは偶然見つけた宝のように、救いは偶然の賜物なのでしょうか。高価な真珠を探し求めても見つからないかもしれません。そもそも、洗礼を受けた私たちは、一体いつ全財産を要求されたでしょうか。全財産と引き換えに神の救いを買うことなどできません。つまりこのたとえ話もイエス様を抜きに考えると行き詰ってしまうのです。そこで、イエス様を鍵として聞き直すと、このたとえ話はまるで違ったものになります。畑で宝を見つけた人と真珠を探している人は、イエス様のことです。そして宝や真珠に喩えられているのは、神様の救いをいただいた私たち自身です。イエス様は私たちを救うためにご自分の一切を捨てて世に来てくださった救い主です(フィリピ268節)。世に来られ、高価な真珠を探す商人のように、御国の子としての私たちを見つけ出してくださいました。そして、御自分自身の命を、私たちを罪から贖うための代価として与え、十字架にかかってくださいました。イエス様の十字架によって私たちは神様の救いをいただいたのです。私たちが探し、私たちが代価を支払うのではありません。イエス様によって私たちを救ってくださることこそ、神様の御心なのです。

20191117日)

マタイによる福音書13章34~43節

 イエス様による「毒麦のたとえ」(2430)の説明です。その前に、たとえ話について預言の言葉が引用され、「天地創造の時から隠されていたことを告げる」、とあります。天の国のたとえは、神さまの天地創造の時からの御心を伝えるために語られているのです。では、その隠されていた御心とは何でしょうか。それが「毒麦のたとえ」を通して教えられます。毒麦のたとえは、たとえ話の中に取り残されると、毒麦のような私たちに良い麦となることを教えているように聞こえます。しかし、毒麦がどうしたら良い麦となれるでしょうか。そこで、このたとえ話を語ってくださる救い主イエス様が鍵となります。天地創造の時、神さまは「在る」ことを願われて私たちを創造してくださいました。神さまの御心は私たちを失わないこと、神と共に在れ、ということです。つまり、そもそも私たちは毒麦として滅ぼされるものではなく、神さまと共に在ることを願われている良い麦、つまり「御国の子ら」なのです。どんなに神さまから離れ、毒麦に似た姿となっていても、私たちは天地創造の時から私たちは、「滅びてはならない」という御心を向けられている、紛れもない良い麦なのです。神さまによって滅ぼされるべきつまずきとなる者や不法を行う者、からみつく罪に捉えられて毒麦と見分けがつかなくなっています。しかし、救い主イエス様が来てくださいました。そして、十字架において罪の贖いを成就されたとき、私たちは御国の子であることが明らかになりました。誰もが御国の子らの姿を取り戻し、「正しい人々」と呼ばれて、父の国で太陽のように救いの喜びに輝く救いをいただけるのです。

20191110日)

マタイによる福音書13章31~33節

 イエス様のたとえ話が続いています。「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」では、共通しているのはきっかけは小さいものだということです。もう一つは、からし種もパン種も、蒔かれ、加えられたら分けることができないということです。からし種やパン種が神さまの言葉であることから、神の言葉は働いて隣人を休ませる大木のように、あるいは飢えているものを生かすパンのように私たちを変えるのだと、聞くことができます。これが群衆の聞き方です。ユダヤの人々は、神の特に律法を大切にしていました。律法はどんな小さな言葉でも、しっかり聞きなさいということを教えていることになるのでしょうか。大切なのは、このたとえが「天の国」について教えているということです。天の国とは「神さまの御心が実現する」こと、言い換えるならば神さまの支配を意味する言葉です。そこでイエス様を救い主として信じる弟子として、このたとえ話を神さまの御心を教えているものとして聞き直すと、受け取る側ではなく「からし種」、「パン種」としてイエス様が神さまによって与えられていることが、最も大事なことです。他の種では駄目なのです。どんなに小さくても、「からし種」であるイエス様を与えられなければ、空の鳥が巣を作る大きな木に喩えられる、天国の恵みは育たないのです。どんなに僅かでも「パン種」以外の「種」を加えたなら、粉全体が腐ってしまいます。神さまは、私たちに対する救いのご決意の実現のために、蒔かれて死ぬ種としてイエス様が世に与えられました。そこから大木のように隣人を休め、パンのように隣人を生かす愛が世に証しされるのです。

2019113日)

マタイによる福音書13章24~30節

 種を蒔く人に続くイエス様のたとえ話です。種を蒔く人を聞いた時と同じように、まずたとえ話の中に、それからイエス様を鍵として天の国の秘密に導かれていきましょう。このたとえ話は天の国について二つのことを語っています。一つは天の国に迎え入れられるのは良い麦であること、もう一つは、毒麦と良い麦は私たちでは見分けがつかないということです。そこで、主人である神様は、間違って良いものを滅ぼすことのないように、毒麦と一緒に育て、収穫の際に見分けて、毒麦は焼き、良い麦は倉に納める―つまり天の国に入れるとされました。そうすると、私たちが救われるためには、良い麦になることが目標となります。しかし、毒麦が良い麦になることがどうしてできるでしょうか。そこで救い主であるイエス様が鍵となります。イエス様が十字架によって私たちを救ってくださったのは、私たちが良い麦になれないからです。毒麦は良い麦に自分自身ではなれません。そこで天の国に入れるかどうかを決められるのは刈り入れの時の主人の言葉にかかっていることが大事になります。神様から見て毒麦のように役に立たないものであっても、神様が迎えると決めて下されば、救われるのです。イエス様が十字架で私たちの罪を贖ってくださり、私たちに代わってただお一人神様の裁きを受けてくださいました。唯一の良い麦であるイエス様によって、毒麦である私たちは救われるのです。これが天の国であり、神様の御心が成就することなのです。

20191020日)

マタイによる福音書13章18~23節

 イエス様のたとえ話は、語られた言葉を分析するだけでは神の国の秘密を悟ることはできません。十字架にかかり復活された救い主であるイエス様を手掛かりとしたときに、神の国の秘密へと私たちを導いてくれます。種を蒔く人のたとえは、まさにこのことを私たちに教えてくれるたとえ話です。このたとえ話を解説されるイエス様が大事にされるのは「悟る」ということです。良い地とは「御言葉を聞いて悟る人」と言われています。道端・石地・茨の間、いずれも実りにいたることができませんでした。神の国の秘密を悟り、その恵みにあずかることができないという点では良い地以外はみな同じです。どうして悟れないのでしょうか。それは神様がまだ悟ることを許されないからだとイエス様は言われました(11節)。神様が許さないと私たちは良い地となることはできないのです。しかし今や悟ることが許される時が来ました。神の国の秘密の鍵であるイエス様が私たちを神の国の秘密へと導いてくださいます。道端のような者、石地のような者、茨のような誘惑に負けてしまう者、そのような悟ることのない者がやがてイエス様を十字架につけろと叫びました。しかしそこに私たちすべてのものを良い地として受け入れてくださる神様の救いがあります。豊かな実りにたとえられる神様の恵みが与えられます。

20191013日)

マタイによる福音書13章10~17節

 種蒔く人のたとえとそれに続く箇所は、イエス様のたとえ話を聞き、神の国の秘密を悟るための手引きのようになっています。イエス様が群衆にたとえ話をされた後、弟子たちがイエス様に近寄って、なぜ群衆にたとえ話で話されるのかを聞きました。それに対してイエス様は、神の国のことを群衆は悟ることが許されていないからだと言われました。普通、たとえ話は内容を悟らせるためにします。ところがイエス様のたとえ話は群衆にとって反対の働きをします。しかし悟ることが許されている弟子たちには、神の国の秘密を悟らせる無二の教えとなります。この不思議な二重の構造がイエス様のたとえ話の特徴です。弟子たちの質問を、ある牧師は「なぜ、あの人たち(群衆)はたとえ話の中に取り残されているのですか?」と解釈しました。イエス様のたとえ話は、難しいストーリーはありません。だからすぐに分かった気になります。そのように聞く者を捕えて、たとえ話の中に閉じ込めてしまうのです。たとえ話の中で、たとえ話の言葉をいくら探っても神の国の秘密は見つけられません。しかし、弟子たちにはイエス様がおられます。たとえ話を聞くときに大事なのは、たとえ話ではなく、たとえ話をされた方を知るということです。イエス様こそが閉じ込められたたとえ話のから脱出し、神の国の秘密へと導かれる鍵です。イエス様の十字架と復活の福音を鍵として、たとえ話は神の国へと私たちを招く神の言葉になります。

2019106日)

マタイによる福音書13章1~9節

  種を蒔く人」のたとえは、イエス様がお話しくださるたとえ話を聞くための心構えを教えてくれるものです。1823節にはイエス様ご自身の解説もあります。イエス様はたくさんのたとえ話をなさいました。普通、たとえ話は伝え難いことを、伝わりやすくするために用いるものです。ところが、イエス様のたとえ話は大分違います。イエス様も、たとえ話ですから、大変に分かりやすい言葉でお話ししておられます。種を蒔く人の姿は、当時の人々にとって馴染みのある姿です。当時のやり方で種を蒔くと、道に落ちたり、石地に落ちたり、いばらの中に落ちることがあります。それらは実りません。しかし「良い地」に落ちると実り、多くの収穫をもたらします。お話はわかります。しかしこの話を通して一体何が教えられているのでしょうか。聖書を読む私たちには、すでにヒントが与えられています。このたとえ話が語られる前に、主イエスの家族とは誰か、ということが話題となり、「父の御心を行う人」が家族だと教えられました。これは神の言葉を聞いて行う人々のことです。つまり「言葉を聞く」ことがたとえ話のテーマです。しかし、それでこのたとえ話をすべて悟ったことにはなりません。それだけでは、人の話を聞く「傾聴」の話で終わってしまいます。そこで留まるならば、信仰へ至らない「群衆」の聞き方です。大事なことは、信仰の耳でもってたとえ話を聞くことです。「イエス様の言葉」、「神の言葉」を聞くことを求めることです。

2019915日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...