2021年9月17日金曜日

マタイによる福音書12章46~50節

 イエス様は「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」と言われました。天の父である神さまの家に属するものが私の家族だと言われたのです。このイエス様の言葉から、やがて教会では、お互いを「兄弟姉妹」と呼び交わすようになりました。イエス様は12章で一貫して「家」を譬えに出して語ってこられました。家の外にいる者は、悪霊が主人になっている家に属する罪の奴隷です。しかし救い主であるイエス様が来られ、悪い時代の中で罪の奴隷とされていた私たちを救い、神様の家へと連れ戻してくださいます。そういう新しい時代が到来したのです。救われて、イエス様から家族と呼ばれる者を「天の父の御心を行う人」と言われました。ルカによる福音書はこの言葉を「神の言葉を聞いて行う人」と記しています。神の言葉を行うとは、神様の命のみ言葉に生かされている人ということです。ちょうど当時の家庭のありふれた光景として、一家の主であるお父さんが食卓で家族にパンを分け与えてくれるように、同じ家の家族の集う食卓で、お父さんからパンを受け取れる人は家族です。お父さんからパンをいただくことが兄弟であり、姉妹であり、母であって、奴隷ではない証拠です。そのように、神の言葉をいただいて養われていることがイエス様の家族の証拠です。そこに、「だれでも」加えてくださるのです。今は家の外から中を伺っている者たちを、必ずイエス様は迎え入れてくださいます。

201998日)

マタイによる福音書12章43~45節

 イエス様の真剣な忠告です。汚れた霊は神さまの御心に逆らって私たちを支配するものです。イエス様は悪い時代の者は汚れた霊から「我が家」と呼ばれていると教えられました。マイホームと言うと素敵な言葉ですが、汚れた霊に「我が家」と呼ばれるのは恐ろしいことです。それだけではありません。汚れた霊が出ていくと私たちは、私たち自身が自分の家の主になると思うかもしれません。しかし、そうはならないのです。私たちでは汚れた霊に勝てません。「ここは私の家だ」と頑張っても、汚れた霊にとっては何の力も持ちません。空き家同然で押し入られてしまいます。自分自身を家の主人として掃除をして家を整えた分、前よりもっと汚れた霊にとっては快適になってしまうのです。そこで以前よりもひどい汚れた霊の奴隷にされてしまうのです。大事なことは、汚れた霊に負けない強い方に一緒に住んでいただくことです。それは神様です。使徒パウロはキリスト者を「聖霊の神殿」と呼びました(コリントの信徒への手紙一6:1220)。神殿とは「神の家」です。私たち自身を神さまが「我が家」と呼んで一緒に住んでくださるのです。私たちを「我が子」と呼んで守ってくださいます。汚れた霊は神さまに勝てません。イエス様は十字架の贖いの救いの御業によって私たちを新しくして、神さまの住まいとしてくださるのです。汚れた霊に支配された悪い時代から私たちを救い、「神は我々と共におられる」という新しい時代を与えてくださるのです。

201991日)

マタイによる福音書12章38~42節

 律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に「先生、しるしを見せてください」と言いました。主イエスが神から遣わされた神の子、救い主であるという証拠を見せろということです。イエス様は大変にきつい言葉でお答えになりました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる。」「よこしま」とは「倫を外れている、姦淫を犯している」という意味の言葉です。聖書はよく神様と神の民(イスラエル)の関係を結婚に喩えています。結婚のように契約と愛によって結ばれた関係です。結婚に喩えられている神様との関係を裏切っているから「しるし」を求めるのです。神様の愛を信じられないから「証拠」を示せと迫るのです。既にイエス様は、病を癒し、悪霊を追い出し、死者を生き返らせるという奇跡を行ってきました。しかし、神様の愛を信じられない者は、どんな「しるし」を見ても、神様の愛を信じて悔い改めることはできません。「よこしまな時代」の中に生きる者は神様に近づくことができないのです。信仰は証拠を求めていくところに生まれるものではありません。だから、全く新しい「しるし」が与えられることをイエス様は教えられました。それは、私たちのために神の独り子であるイエス様が十字架にかかって罪の罰を代わりに受けて死んでくださり、死から復活されることです。私たちを愛する神様は、愛する子を死に渡されました。しかも神様の愛は、死に勝利され愛するものを復活させる愛です。この救い主イエス様の十字架と復活の時によって、「よこしまな時代」は終わりを迎え、十字架と復活を信じる信仰が神様によって与えられる時代がはじまったのです。

2019818日)

マタイによる福音書12章33~37節

 ここでイエス様が問題としておられるのは、私たちの発信する「言葉」です。言葉が証拠となって神さまの前で義と罪が定められると言われます。なぜなら言葉は心にあふれていることを発しているからです。この箇所を「きれいな言葉を使いなさい」という教えとして読むだけでは済まないのです。むしろ、そのような誤魔化しを許さない厳しく私たちを罪人として指摘するイエス様の言葉なのです。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」学生の頃、「話した言葉は決して消すことができない。書いた言葉は消しゴムで消すことも、訂正することもできる。けれども、話した言葉は決して消すことも、訂正することもできない。それを聞いた人の中に残り続ける」、ということを先生から聞いて、恐ろしく思ったことがあります。まして、ここで私たちの言葉を聞いておられ、責任を問われるのは神様です。誤魔化すことはできません。一体誰が罪に定められることなく神様の前に立てるでしょうか。一人もいません。誰も義に定められません。しかし、この罪の行き詰まりを語られた方こそが、この行き詰まりを打ち砕く救い主でした。罪の実りの報いを十字架で身代わりになって引き受けてくださいました。私たちは悪い木として切り倒されることなく、神の国に移されて、まことの父である神様から良いものをいただいて、良い木として良い実を結ぶ新しい命を与えられるのです。

2019811日)

マタイによる福音書12章22~32節

 悪霊に苦しめられていた人がイエス様のところへ連れてこられました。安息日でしたがイエス様はすぐに悪霊を追い払って、一人の人を神様のもとへと取り戻してくださいました。群衆の中にはイエス様の御業を見て「この方こそ神様が遣わされた救い主だ」と受け止めた人もいました。するとファリサイ派の人々はイエス様が「悪霊の頭」であるから、悪霊に指図していると言ったのです。それに対してイエス様は、「それは内輪もめだ」と言われました。イエス様が悪霊を追い出されたのは、悪霊との戦いに勝利したからです。そしてイエス様は「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」、と言われました。さらに「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される」と言われ、また「人の子に言い逆らう者は赦される」と言われます。どんな罪を犯している者でも、どんなに神様を冒瀆している者でも、赦していただけるのです。人の子とはイエス様のことです。イエス様に言い逆らう者ですら赦されるというのです。赦されない罪などない、ということです。その罪の赦しは何によって与えられるのでしょうか。主イエス・キリストが、私たちのために、サタンと、罪の力と、戦って下さり、ご自分の苦しみと死と復活によって勝利して下さったことによります。イエス様は、神様の救い(神の国)の外に立つのではなく、その中で神様と一緒に救いを喜んでほしいと言われたのでした。

201984日)

マタイによる福音書12章9~21節

 イエス様はユダヤ人たちの会堂にお入りになりました。会堂では、安息日に多くの人々が集まって律法を学び、祈る礼拝をしていました。「すると、片手の萎えた人がいた」(10)。ファリサイ派の人々は片手の萎えた人が目の前にいれば、イエス様が癒しの業をするに違いない、と考えました。病気の人を癒すことは仕事です。安息日には仕事をしてはいけないのです。ファリサイ派は、安息日に人々が集まっている会堂の真中ですれば、多くの証人の前で、明確に、イエスは安息日の律法に違反していると訴えることができる、と考えました。そしてイエス様に「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と問いました。イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と言われて、手の萎えた人を癒されました。それは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ127)の神様の御心の実践でした。安息日の掟は神様の憐れみの御心によって与えられているものです。人々が神様の恵みの御心の中で、安息を与えられる、神様の憐れみの中で憩うことができる、そのために安息日はあるのです。だから、安息日に癒しの業をするのは正しいことなのです。イエス様はご自分の命を懸けて、傷ついた者を折ることのないように、罪の滅びに渡さないために、神さまの憐れみを担って世に来てくださいました。神様の憐れみの御心こそ、イエス様を信じて集う教会の拠るべき土台です。

2019721日)

マタイによる福音書12章1~8節

 安息日は十戒によって定められた仕事を離れて休む日であり、礼拝の日でした。この日には仕事をしてはならないと律法は定めていて、何が仕事になるのか、ということに当時の人々は心を奪われていました。そこで安息日に空腹のために麦の穂を摘んで食べた弟子たちの行為が「仕事」にあたるとして咎めた者たちがいました。そこでイエス様は、安息日は何を根拠に定められているのか、神さまが安息日によって私たちに求めておられるのは何か、ということを旧約聖書の御言葉から話されました。

ダビデは空腹の時、祭司しか口にしてはならない供え物のパンを食べたが、神さまはそのことを咎められたか。また安息日に神さまの御心に従って働く祭司は仕事をすることが許されているではないか。それは神さまが求めているのが「憐れみ」に他ならないからだ。

安息日は神様の憐れみ、すなわち愛に基づいて与えられている日です。だから、安息日を与えてくださったことを真剣に考えるならば、仕事か仕事でないかを議論して、人を咎めて罪人に定めることに熱心になるのではなく、飢える者の空腹を満たすように、神様に仕える祭司のように、神様の愛と憐れみをあらわすことを、神様は求めておられるのだ、とイエス様は教えられました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11:28)。神様の憐れみへ招かれるイエス様は安息日の主です。

2019714日)

2021年9月15日水曜日

マタイによる福音書11章25~30節

  「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは教会が門や扉の所に記されていることが多いイエス様の御言葉です。イエス様の招きの言葉です。イエス様は、招きに応えた者たちを、「幼子のような者」と呼んでおられます。これは神さまの招きに応えなかった者たちが「知恵ある者、賢い者」と言われるのに対して愚かだという意味ではありません。幼子は、父母を信じて、真っすぐに手を伸ばして抱きつきます。丁度そのような光景を思い浮かべられると良いでしょう。そのように父なる神さまを慕う姿こそ、神さまの御心に適う者でした。そこで大事なことがあります。それはこのように神さまを慕い、神さまに迎えられるために不可欠なのがイエス様と一緒であるということです。神さまから永遠から永遠にわたって愛されている神の独り子であるイエス様が、私たちに父である神の愛を証してくださいました。そして、軛をイエス様と一緒に負います。軛は2頭の家畜を一緒に同じ向きに歩ませるときに使われる道具です。神さまに迎えられた者には、神の子とされたことに相応しい生き方があります。それをイエス様が一緒に歩いて教えてくださいます。軛に対して「重荷」があります。これは罪によって独りで背負ってきた苦しみや悩みです。それに代わって軽い軛を、イエス様と一緒に担うことで安らぐのです。救い主であるイエス様が私たちに与えられていることこそ、救いの基なのです。

(2019年7月7日)


マタイによる福音書11章20~24節

  主イエスは悔い改めなかった町々を叱り始められました。「叱る」と言っても、怒っているということではありません。また、「もう知らない」と捨ててしまうのでもありません。この叱るというのは、子の罪を憂い、嘆く姿です。「不幸」と翻訳されている言葉も、うめき声をあらわす言葉です。罪のために洗礼者ヨハネの招きにも、イエス様の招きにも応じることのなかったコラジンやベトサイダの人々は、このままではソドム以上の厳しい罰、すなわち滅びに定められてしまう。しかし、どうして見捨てられるだろうか。そういう深い愛のお叱りです。聖書において、「贖い」は大切な概念です。子の罪を共に担う親の愛も「贖い」です。以前、講演で聞いたことがあります。ユダヤでは、子が罪を犯した時に、親は鞭で子を打って罪から離れるように教えました。しかしそれだけでなく、親自身も自分自身をより強く打って、この罪をその身に刻んで共に罪を担いました。子は親の傷を見て、罪から離れる決意を新たにし、親は傷をもって子の存在を刻み、絶対にこの子を捨てないという愛を新たにしたのです。この日、嘆きのお叱りをなさったイエス様は、悔い改めることのない私たちの罪の一切を担い、十字架においてその身に傷を負ってくださいました。その傷は、復活されたイエス様のお身体にも残り続けました。その傷こそ罪人である私たちを御自身に刻み込み、忘れることも捨てることもないというしるしです。お叱りになったイエス様は十字架の愛をもって罪を贖ってくださる救い主です。

(2019年6月23日)


マタイによる福音書11章16~19節

 イエス様は「今の時代」をたとえて子どもたちが「結婚式ごっこ」や「葬式ごっこ」に誘っているのに応えてもらえない様子を語られました。これは、洗礼者ヨハネによる神さまの招きにも、イエス様による神さまの招きにも応じなかった様子を指摘しています。洗礼者ヨハネが自分自身を律して厳しい生活をしながら悔い改めと神さまの招きを語ると「悪霊に取りつかれている」と批判し、イエス様が神さまの救いをいただいた罪人と喜びを共にして食事をすると「大食漢の大酒飲み」と非難しました。「今の時代」、すなわち罪の支配の下にいる人は、どんな神さまの招きに対しても非難し、傲慢になってしまうのです。それでは、一体どうしたら人は救いをいただくことができるのでしょうか。「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とイエス様は言われます。「知恵」とは私たちの救いを決意なさった神さまの知恵であり、イエス様ご自身のことも示している言葉です。罪のために神さまに対して目も耳も塞がれて、神さまの招きを遠ざけてしまう私たちのために、神さまご自身が人となってくださいました。それが神さまの独り子であるイエス様です。そして、人々の知恵に身を任せて、罪のない方であるのに、「罪人の仲間」となってくださり、罪を負って、十字架で身代わりとなって神さまの裁きを受けてくださいました。この神さまの私たちを愛する愛の知恵によって、私たちの中に「この方こそ救い主」と信じる、新しい時代が到来したのです。

2019616日)

マタイによる福音書11章7~15節

 イエス様は洗礼者ヨハネを時代の大転換点を示した偉大な人物として紹介されます。大転換とは何でしょうか。それは、見たいこと、聞きたいことだけを求めて神さまの救いの御心に目と耳を向けない人々の罪の壁を打ち砕いて、神さまの方が救いを携えて訪れてくださるという新しい出来事の到来です。救い主の到来とはそういう出来事です。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」(12節)という言葉はそのことを示す言葉です。天の国、すなわち神さまの救いを奪い取ろうとしているのは誰でしょうか。悪魔ではありません。洗礼者ヨハネやイエス様から、見るべきものを見、聞くべきことを聞いて神さまの救いを得ようと願う人のことです。救いを求める人々が殺到していると言われるのです。しかし、見たい者だけを求め、聞きたいことだけを求める者は、救いを取りに来ないことをイエス様は嘆いておられるのです。「あなたがたが認めようとすればわかること」とイエス様は言われます。今や神さまの救いは近くにもたらされており、隠されていません。それは価なしに神さまからいただくことができます。聞くべきことを聞き、見るべきものを見て神さまの招きを認めさえすれば、救いは与えられるのです。魂に命を得るのです。魂はその豊かさを楽しむことができるのです(イザヤ書5513節参照)。神さまはイエス様をお与えくださり、熱意をもって、私たちを天の国、救いへと招いておられます。

2019519日)

マタイによる福音書11章1~6節

 イエス様のもとに、牢に捕われている洗礼者ヨハネの元から弟子たちが遣わされてきました。「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねるためです。洗礼者ヨハネは、救い主の到来が近いことを人々に告げ、イエス様が来るべき救い主であることを人々に示した人です。その人が、自分の示したイエス様が、本当に救い主であるのかということに不安を覚えたのです。洗礼者ヨハネは、救い主の到来を迎えるため、人々に悔い改めを激しい言葉で迫りました。何故なら、悔い改めて神さまに立ち帰らなければ、救いにふさわしくない者として救い主に裁かれ、滅びに定められるからです。しかし、救い主であるイエス様はそんなことはなさいませんでした。人々を滅びに定めるようなことは一切なさいませんでした。それどころか罪人を招き、共に食事をし、神の国の福音を告げられました。洗礼者ヨハネが予想していた救い主の姿とまるで違ったのです。このヨハネの問いかけにイエス様は、「わたしにつまずかない人は幸いである」とお答えになりました。これはヨハネを励ます言葉です。洗礼者ヨハネは今、領主ヘロデに捕えられ牢の中にいます。後に彼は牢の中で死を迎えます。彼自身がそのことを感じていたのでしょう。その時に、自分の期待通りでない救い主の姿に戸惑いを覚えたのでしょう。ヨハネの弟子たちがイエス様の元で見たのは、神に立ち帰り、福音の喜びに生きる人々の姿でした。神さまの御心は、罪人を滅ぼすことでなく、赦し救うことでした。

2019512日)

マタイによる福音書10章40~42節

 伝道に遣わされる弟子たちへの最後の教えです。ここでイエス様が教えられるのは、神さまの気前の良さです。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」遣わされる弟子たちを、キリストの弟子として受け入れる人は、神さまを受け入れることと同じだと言われます。たとえば、わたしたちが教会へ来るときに自分自身は教会へ来なくても、「いってらっしゃい」と送り出してくれる家族がここに含まれます。イエス様の弟子(キリスト者)であるという理由で水一杯を飲ませてくれるような、ほんの僅かの親切でも神さまは決してお忘れになりません。必ずキリスト者と同じ恵みの報いを与えてくださいます。みんなが神さまに恵みの報いをいただくなら、キリスト者になって何の得があるのだろう、と考えるかもしれません。マタイによる福音書20章で、ぶどう園の主人に神さまは喩えられています。一日中働いた者にも、一時間しか働かない者にも同じ報いを与える主人に一日中働いた人は文句を言いました。しかし主人は答えます。「わたしの気前の良さをねたむのか」(2015節)。私たちキリスト者も、気前のいい神さまの招きがなければ救いをいただくことはできませんでした。私たちキリスト者の存在は、神さまの気前の良さの証拠です。だから神さまの気前の良さに頼って伝道するのです。それは何とのびのびとした務めでしょうか。

201955日)

マタイによる福音書10章34~39節

 私たちはイエス様を信じて人生や人間関係に平安をもたらしてほしいと願います。ところが私たちがイエス様を選ぶ時には、家族ですら敵対すると言われるのです。どういうことでしょうか。この箇所で繰り返される大事なことは「イエス様を選ぶ」ということです。そのことを「自分の十字架を担って」、と言われます。ここを理解するための鍵は、マタイ福音書で初めて登場する「十字架」という大事な言葉です。イエス様が罪人の贖いのために十字架にかかられ、三日目に復活されたことを示す言葉です。このことを抜きにすると、十字架は「苦難」や「痛み」を意味するだけになり、イエス様が言われることは理解しがたくなります。しかし、「イエス様の十字架」を信じ救われた者にとって、「イエス様の十字架」から私たちの担う十字架への理解の鍵が与えられます。イエス様の救いをいただく前、家族であるのと同時に、罪の支配を受けていた私たちは罪人の仲間同士でした。しかし、イエス様に救われて罪人の仲間ではなくなりました。だから敵対されます。その時に、わたしたちはイエス様の弟子としてどのように振舞うのでしょうか。イエス様の十字架に倣って振舞うのです。それが「十字架を担って」従うということです。イエスが十字架であらわされたのは、ご自分を罵り、殺そうとされる人々、敵対するものを愛し抜いたことであり、赦されたことです。イエス様の弟子である者は、人々が自分たちに敵対するときにも、このイエス様の十字架のお姿を見失わず、十字架を捨てずに、赦しの御心に倣い、愛し、赦し、平和を告げるものであることが求められています。そこに命の約束が続きます。

2019414日)

マタイによる福音書10章26~33節

 平和の福音を伝えに人々のもとに行く弟子たちを励ます主イエスのお言葉です。「人々を恐れてはならない」と言われます。これから弟子たちが出会うのは初対面の人々です。さらに人々は狼に喩えられたように、弟子たちを傷つけ、命を奪う力を持ちます。しかし、それは「あなたがたの父」である神さまの許しがなければ実行することはできないのです。むしろ、魂までも滅ぼすことのできる本当に恐れるべき方である神さまが、あなた方を愛していることを忘れてはいけない、と言われるのです。人々を恐れてイエス様の託された使命を投げ出してはいけないのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」とイエス様は命じられました。人々を恐れることなく、神さまが知らせようとしておられる福音を伝えるのです。イエス様は後に、最も大切なこととして、神さまを愛することと隣人を愛することを教えられました(マタイ223740)。人々を恐れずに、狼のように牙をむいていながら、実は神さまを見失って、「飼い主のいない羊のように弱り果てている」人々を憐み、愛するのです。魂を滅ぼすことのできる方を恐れるとは、神さまを真実に神さまとして重んじるということ、言い換えるならばやはり「愛する」ということです。愛する神さまの願いである救いの知らせを、愛する人々へと伝えることが弟子の使命です。恐れを取り除くのは愛なのです。

201947日)

マタイによる福音書10章16~25節

 イエス様は人々の飼い主のいない羊のように弱り果てている姿を憐れまれました。これからイエス様が遣わす弟子たちは、イエス様の憐みの心を携えて行きます。しかしそこで待っているのは狼のような人々に出会うと言われます。本当の飼い主を迎えなければ滅びてしまう羊であるのに、そのことに気づかず、やって来る羊飼いを噛み裂こうとする狼のような人々の中に遣わすのだと言われます。そこで主の憐みを携え、平和を告げるために「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました。これは、師であり主人である主イエスの歩みに倣いなさいということです。神の言葉に生きる賢さと、神の御心に従う素直さをもって、主イエスはお働きをなさいました。この主イエスのお姿に倣うことが大事なことです。それでも危険を感じたら、「逃げて行きなさい」と教えられます。狼たちの敵意はイエス様に向けられています。やがてこの敵意がイエス様を十字架にかけます。しかし十字架の上でイエス様は赦しを祈られ、飼い主のいない羊のような私たちを救ってくださいました。この主イエスの愛を信じ、お働きに倣うのが弟子なのです。弟子を追い詰め滅ぼすことは御心ではありません。救いをもたらすのは神さまであることを信じて、私たちは為すべきことを為し、後を神さまに託す素直さをもって次の町へと平和を告げに出ていくのです。全部の町を回りきらないうちに、逃げ出した街にもイエス様の救いが訪れるから、心配しないで逃げなさいと言われるのです。

2019324日)

マタイによる福音書10章5~15節

 イエス様が弟子たちに伝道の心得を教えておられます。まず、弟子たちが向かうのはユダヤの町や村です。ここは9:35に「イエスは町や村を残らず回って」とあるように、既にイエス様が訪れておられる場所です。伝道はいつもイエス様が先に赴いてくださった後に続いていくものです。そしてそこでイエス様に倣って活動します。910節に旅支度をしないように言われるのは、伝道について神さま以外の力に頼るなということです。神さま以外の物を数えて伝道の可能性を探ってしまう誘惑は最も大きいものかもしれません。殆どの場合、「足りない」と感じて伝道が始められなくなります。しかし伝道の備えは当然神さまがしてくださっているのです。それを信じていくことが一番大切なことです。11節に言われている「よく調べ」というのは、訪れた土地をよく見て、愛しなさいということに通じます。一見して良い悪いと決めつけず、よく調べて福音の基地を見いだしなさいということです。伝道は裁くためにするのではありません。どんな町や村、どんな人にも「平和があるように」と祈ることです。しかし、それでも迎え入れてもらえずに伝道がうまくいかないと感じることがあるでしょう。そんな時は足の塵すら落として、未練を持たずに去って行きなさいと言われます。伝道は私たちの力量を問うテストではありません。神さまの御心の実現です。ですからうまくいかないことも御心です。神様の救いの決意を信じて去って行けと言われます。

2019317日)

2021年9月13日月曜日

マタイによる福音書9章35節~10章4節

 イエス様は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れ」ました。「深く憐れむ」という言葉は、聖書では神さまの「憐れみ」の心をあらわす時にだけ使い特別な言葉です。「はらわたが痛む」という意味で翻訳されたこともありました。単に「かわいそうに思う」のではなく、深く愛するあまり自分のはらわたを捻じられるような痛みを感じる程だったということです。「深く憐れまれた」というのは、「愛された」ということを言い換えているものです。ヨハネ福音書316節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。打ちひしがれた者を一人も滅びに渡さないために、深い憐みのゆえに神様は最も大切なイエス様を与えてくださったのです。群衆はいつも俯いて生きていたわけではないでしょう。仕事をし、家族を守ろうと生きていたはずです。しかしどんなに元気に見えても、「飼い主」である神さまを見失ったままでは滅びてしまいます。イエス様は彼らのための働き手を求めるように神さまに願うことを弟子たちに命じられました。収穫のための働き手というと、まず牧師が考えられるでしょう。あるいは教会の奉仕者もそうでしょう。イエス様の深い憐みをいただき、十字架の救いを与えられた私たちは、イエス様と共に弟子として働き手が与えられることを祈り願うのです。

2019310日)

マタイによる福音書9章32~34節

 福音書には悪霊にとらわれた人々が登場します。今では医学の知識が増したことから様々な病として理解されることの多い「悪霊」ですが、その特徴は「神を失わせる」ことです。それが病との違いです。今日の箇所では、悪霊のために口をきけなくされている人が記されています。神の救いを求める声を奪われているのです。その人をイエス様が悪霊から解き放って癒してくださいました。一人の人が悪霊の支配から神さまの元に取り戻されたのです。これは大きな喜びです。しかし、それを目撃した人々は、喜びを共にすることができませんでした。多くの人々はただ「すごい」と驚き、ファリサイ派は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出していると非難を始めました。神さまと共に喜ぶことができず、驚くだけであったり批評するばかりであった人々が、後にイエス様を十字架につけます。本当に驚嘆すべきことは、たったひとりの人のためにも神さまが心を込めて近づいてくださり、病を癒し、悪霊を追い出し、死すら退けてくださる「憐れみ」を向けてくださっていることです。神さまが一人一人の願いに振り返って耳を傾けてくださり、優しく「元気になりなさい」と声をかけてくださり、家に招き入れ、悪霊から取り戻してくださるのは驚くべき「憐れみ」です。こんなにも神さまに私たち一人一人が愛されていることこそ「起こったためしがない」驚くべき出来事です。この深い「憐れみ」を知る時、神さまと喜びをも共にすることができます。

201933日)

マタイによる福音書9章27~31節

 信仰は、私たちの求めと、救い主であるイエス様と出会うことで成立します。私たちが熱心だけの問題ではありません。二人の盲人がイエス様に「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。イエス様はすぐにお応えになりませんでした。「ダビデの子」という呼びかけは、救い主を指す言葉の中でイエス様が避けられた呼び方です。それは、「ダビデの子(偉大なダビデ王の子孫)」という言葉が、ダビデ王家による正当な支配の再来を期待する意味が強かったからです。ダビデ王のように神の民を脅かす世の権力者を倒して、ユダヤ人が力をもって支配するという意味を含んでいました。私たちは人を様々な権威を元に判断します。その人自身を知るより先に、その人がどんな肩書を持っているかで判断します。イエス様は「ダビデ」によって権威を与えられることを避けられました。確かに救い主は預言によってダビデの家系に生まれました。しかしそれは罪の歴史を担ってくださるためです。イエス様に権威を与えるのは父なる神のみです。そして父なる神の御心は、敵を滅ぼすことではなく、敵を愛することでした。そのためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。この神さまの愛がどんな肩書にもよらず、まことに「イエス」という方にむき出しになっているのです。このイエス様と出会い、「主よ」とお応えするところに信仰があり、救いがあります。二人の盲人も肩書を離れてイエス様に出会って、「はい、主よ」と応えて癒しをいただきました。

2019217日)

マタイによる福音書9章18~26節

 イエス様の病と死を退けられた大きな奇跡を伝える箇所です。この出来事を通してマタイ福音書は「信仰」について教えています。12年間患っていた婦人はイエス様から「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。この婦人の信仰の何が奇跡を呼び、病を癒したのでしょうか。信仰を問う時に私たちは信仰を大きい、小さい、重い、軽い、深い、浅いと表現します。これは信仰を「熱心」と同じように考えているからです。私たちの心が燃えていると信仰があり、神様への疑いが起こると信仰が失せてしまう。そんな風に考えます。しかしこれは独りよがりの世界です。マタイ福音書は、信仰は求める「私」と応えてくださる「主」との出会いの出来事だと語ります。娘を失くした指導者が救いを求めます。それに神の子である救い主がお応えになりました。12年間患っていた婦人は癒されることを求めました。この婦人の願いに振り向いて応えてくださる神の独り子である救い主がおられます。マタイ福音書は、主イエスがお応えくださった後に「治った」と記します。救いをもたらす信仰は、私たちの求めに愛をもって応えてくださる方がまことにおられることで成り立ちます。決して独りの事柄ではないのです。神様が共にいてくださることで成立するのが信仰です。娘を失くした指導者も病の婦人も熱心に信じました。しかし、熱心であることに力があるのではありません。救いを熱心に求めてやまない者の声に、神は無関心ではないことが信仰を支えています。振り返り声をかけ、足を運び、手を置いてくださる慈しみの主イエスが「私の信仰」の「土台の岩」(マタイ福音書725節)です。

2019210日)

マタイによる福音書9章14~17節

 洗礼者ヨハネの弟子たちが「なぜ断食をしないのか」と質問をしました。徴税人や罪人と食事を共にして、断食をしないイエス様と弟子たちのことが理解できなかったのです。洗礼者ヨハネは、救い主の到来を告げた人物です。そして救い主を迎える前に罪を悔い改めるように迫り、罪の悔い改めのしるしとして洗礼を行いました。救い主の到来は、同時に神様の裁きの到来と理解していたからです。罪を裁く神様が来られる前に、神様に滅ぼされないように悔い改めて、裁きに耐えられるようにしなさいと教えたのです。彼らにとって、神様は裁きの神であり、恐ろしい神様に自分はこんなに一生懸命に罪を悔い改めていますと示すのが「断食」でした。しかし、実際に来られた救い主がお示しになったのは、私たちを救う神様でした。私たちを愛し抜いておられる神様でした。そのために神様の独り子をお与えくださり、私たちの罪を十字架で贖ってくださる救い主でした。私たちを滅ぼすことをしないと決意された神様の愛が到来したのでした。このことを「花婿」の到来に喩えています。神さまは罪人を滅ぼしに来られるのではなく、罪人を愛する花嫁を迎えに来た花婿のように迎え入れてくださる方として、教えてくださいました。婚礼の時は喜びの時、祝いの時です。その時に断食をするのはおかしいことです。イエス様は、救い主の到来は私たちにとって恐れるべきことではなく、喜ばしいこと、それも最高に嬉しいことだと教えられました。しかし、この喜びを真実にいただくために、私たち自身も新しくなる必要があります。それもイエス様を信じる信仰という恵みの賜物として与えられます。

201923日)

マタイによる福音書9章9~13節

 徴税人は税金を集める者たちでしたが、今日の税務署とはまるで違います。彼らはローマ帝国に代わって同胞から税を集めていましたが、自分たちの利益を得るために定められている以上の金額を同胞から奪うことをしていました。そのため、人々から同胞を売り渡す罪人とみなされ、徴税人自身も罪人として生きることに開き直っていました。収税所に座っているマタイはまさしく罪の中に座り込んでいる人の姿です。そのような生き方をしていた徴税人マタイをイエス様は見られました。この箇所は「マタイという人間を見た」という文章で書かれています。そしてイエス様が声をかけられるとマタイは「立ち上がって」イエス様に従いました。福音書はマタイが徴税人になった背景や心情を記していません。罪の中に座っている人を救うのは、そういった事情ではなく、救い主が見て、罪の中から呼び出してくださるという「神の御業」によるからです。神様の救いの御業によってマタイは罪から解き放たれて、立ち上がって従ったのです。その後、マタイや彼の友人であろう罪人たちと食事を共にしているイエス様をファリサイ派の人々が非難しました。彼らはいけにえを熱心に捧げ、律法を守る自分たちの正しい生き方こそ救いを得る手段だと理解していたからです。しかし、救いは神様のご決断によるものです。そのことが分かると、罪人の中の罪人と言うべき徴税人が神のもとに取り戻されたことを喜ぶ神さまと、憐みの心を共にして生きることができます。それこそ神様が喜ばれることなのです。

2019120日)

マタイによる福音書9章1~8節

 イエス様が中風の人を癒してくださった話について、マタイ福音書は大胆にエピソードをカットして、読む者をイエス様へと集中させます。そこでマタイ福音書が中心としたのは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」ということです。私たちの罪を赦すことがおできになるのは唯一、「神」だけです。その意味で、イエス様が罪の赦しを告げられた時に律法学者が心の中でイエス様を非難したことは、おかしなことではありません。しかし、この非難を超える事実がここに起こったのです。それが、「神が人として地上に来ておられる」という事実です。主イエスは、罪を赦す権威を持つ真の神の子であることを福音書は知らせています。そして、最後の人々の驚きも、マタイ福音書は「人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」と記しました。この罪の赦しの権威を神は「人間にゆだねられた」と言うのです。これは主イエスの御名によってたてられる教会を意味しています。「罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのとどちらが容易いか、とイエス様は問われました。「起きて歩け」と言うことのできる賜物は主イエスや教会以外にも与えられています。例えば医者はまさしくそうです。「起きて歩け」というのに神の奇跡である必要はありません。今日のように医療が進歩した中ではなおさらです。しかし、「あなたの罪は赦される」という約束の言葉は、教会にゆだねられた神の権威です。これは他にはない唯一の福音の言葉であり、救いの言葉です。教会は神の子、主イエス・キリストの「罪の赦し」を世に明らかにする権威と使命を委ねられています。

2019113日)

2021年9月2日木曜日

マタイによる福音書8章28~34節

 向こう岸でイエス様を待っていたのは悪霊でした。向こう岸は神の国を喩えています。神の国は神のご支配の中にあります。イエス様が来られたことで悪霊が滅び、神の支配が明らかになりました。ここも神の国となったのです。悪霊とは何かについて明確に説明することはできません。それらは神から私たちを引き離し、悪を行わせること、神の御力によらなければ悪霊から解放されないことが聖書に記されています。ここで悪霊たちは神の子であるイエス様から逃げられないと悟ったのでしょうか、自分たちからイエス様のところに来て見逃してくれるよう懇願します。彼らはやがて自分たちは神に滅ぼされることを承知していますが、その時はまだ来ていないはずだと言うのです。イエス様のことを神の子と正確に理解していますが、しかし悪霊の本性は神を侮ることです。神の救いを「まだ」と決めつけているのです。これは神を侮ることです。しかし、私たちも救いは「まだ」と侮ることがあります。もっと学んでから、もっと清い生活ができるようになってから、と自分たちで救いの時を決めようとします。それはこの悪霊の言い分に似ているのです。悪霊の滅びを定めるのは「時」ではなく「神」です。救いの日を与えてくださるのは神です。だから、神の子であるイエス様は悪霊の言い分に屈しません。神の子が二人の悪霊につかれた男たちを取り戻すために、「今」ここで悪霊を滅ぼすとお決めになられたのです。悪霊は豚に逃げ込んで助かろうとしますが、豚と共に死んでしまいました。人間の手には負えなかった悪霊も、私たちを愛する神の子、イエス様には全く手も足も出ないのです。

20181216日)

マタイによる福音書8章23~27節

 イエス様が嵐を鎮められた話はマタイ福音書以外の福音書にも記されています。マタイ福音書はこの話を「向こう岸」へと弟子たちを送られ最後にイエス様が船に乗られたあとすぐに嵐が起こったように記しています。船に乗る弟子たちは神の国に招かれた者たちです。彼らを救いから遠ざけようとするものが「激しい嵐」に喩えられています。嵐の中で弟子たちは「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めます。私たちも困難に出会う時、苦しみの時、必死に助けを求めて祈ります。神さまに助けと憐れみを求めて祈ります。そんな時、イエス様はどうされていたでしょうか。眠っておられたのです。なぜなら父なる神さまを信じ抜いておられたからです。私たちを愛しておられる神は、私たちの苦しみを見逃すこともなければ、苦しみの中から救ってくださらないはずがない。だから安心して眠っておられたのです。ここに信仰があります。イエス様は失われた私たちを探し出し、向こう岸である神の国へと導いてくださいます。それは私たちが強い信仰をもって神さまにお応えしたからではありません。むしろ私たちの信仰は、こちら側に残る人々と何の変りもないほどに「薄い信仰」です。けれども一つだけ大きな違いがあります。それは、私たちの向こう岸への航海には、最高の信仰をもつ神の独り子、救い主であるイエス様が一緒にいてくださるのです。だから薄い信仰のままでいいというのではありません。イエス様をお手本にして信仰を学びます。けれども約束してくださった神の国の救いはイエス様が一緒にいてくださるから、どんな嵐も妨げることはできないのです。

2018129日)

マタイによる福音書8章18~22節

イエス様は群衆と「弟子」を区別されます。ファンである者と「弟子(キリスト者)」は違うのです。そのことが弟子に「向こう岸に行くように命じられた」ことにあらわれています。向こう岸は「神の国」を暗喩しています。この世から、向こう岸の神の国に居場所を変えられた者が「弟子」です。弟子はイエス様ご自身が探し出して神さまのもとへと連れ戻した者たちです。ここに主イエスの大切なお働きがあります。福音を告げ、病を癒し、そして「弟子」を探し出されたのです。そこに自分から進んで弟子になりたいと申し出た律法学者がいました。しかしイエス様は、彼の願いが向こう岸ではなくこちら側にあることを見抜いておられました。また、弟子が父の葬りを願い出たとき、「わたしに従いなさい」と言われました。私たちにとって向こう岸にわたるとは「洗礼」を意味します。その時に、様々な心配が私たちをこちら側に残そうとします。しかしイエス様は厳しいほどの言葉で、まずあなたは「従ってきなさい」と言われます。まず向こう岸に、神の国に居場所を得なさいと言われるのです。死を嘆くことは死に支配されている者に任せればいい。しかしそこに神の国の命の福音を携えてあなたは行かなくてはいけない。だからまず、「わたしに従いなさい」と言われるのです。信仰を持つとは、神無きものであった私たちが、神と共に生きるものとなるということです。死を打ち破る神さまが私たちに与えられるのです。

2018122日)

マタイによる福音書8章14~17節

 イエス様の病の癒しの奇跡が続けて記されます。マタイによる福音書は、山上の説教を語られたのと同じ一日の間に起こった出来事として記しています。これは、イエス様の地上での宣教のお働きの一日が、こういうものだったと教えていると言えるでしょう。つまり、神の国について教えられ、求められると病を癒してくださる。それもすぐにお応えくださいます。神の民として祝福された者が病になるのは、何か罪を犯しているからだ。本人でなければ先祖に罪があるからだ、という考えがありました。そのため病は、神さまの救いの枠から外れた状態、神から見捨てられた状態とされました。イエス様はそのような悩みを担い、人々に神さまの愛を伝え、連れ戻してくださることに熱心でした。それが病の癒しの御業にあらわれています。この癒しについて「彼は…患いを負い、病を担った」というイザヤ書の言葉の成就だと記しています。病の苦しみは消滅したのではなく、イエス様が負ってくださいました。それは「神から捨てられる」という悩みです。罪のゆえに私たちの命は死にさらされることになりました。その時から病の悩みが私たちを襲いました。罪のもたらす絶望を神の独り子が引き受けてくださったのです。救い主はご自分の一日をそのために休む暇もなくすべて費やしてくださる日々を送られたのです。その極みに十字架の贖いがありました。イエス様が神から捨てられるべき罪の重荷を負い、私たちに代わって悩み苦しんでくださったのです。

20181118日)

マタイによる福音書8章5~13節

 イエス様のもとに、僕の癒しを求める百人隊長が近づいてきました。彼もまた、普通ならば近づくことのない人です。彼は外国人でした。当時の敬虔なユダヤ教徒は外国人との交流を避けることが多かったですし、ましてユダヤを支配していたローマ帝国の百人隊長に対してはなおさらでした。しかし、「イエス様こそ救いの神であられる」という信仰が彼をイエス様へと近づかせました。ここにマタイ福音書は第一の信仰の姿を見ています。この方こそ救い主と信じたならば、まっすぐに近づくのです。私たちは救いをいただくよりも、世の事情や気遣いに心を奪われて、むしろ救い主を見送ってしまうのです。しかし事情も気遣いもイエス様は担ってくださり、救いの道を開いてくださいます。そこまで信じぬいていないのです。第二に、彼は徹底的にイエス様を「神の子」、「救い主」として向かい合っています。自分の屋根の下にお迎えできないというのも、神さまの御心を本気で尊重しているからです。神さまがお命じになれば、万物はその御言葉に服さなければならないということを信じていました。だから、余計な儀式で慰められることを求めませんでした。自分勝手に救いの実現を決めることをしませんでした。御言葉を求めました。本当に御言葉によって救われるのは百人隊長自身であることを承知していたのです。この徹底して神を神とする信仰に、神の独り子である救い主、イエス様は喜んで応えてくださいました。

20181111日)

マタイによる福音書8章1~4節

 山上でお話を終えてイエス様は山をおりられます。ここからイエス様の言行を記した箇所がはじまります。そこに重い皮膚病の人が近づいてきて、清められることを願いました。イエス様はその人を清めて病を癒してくださいました。この出来事は、山上の説教の最後の教えにあった「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の具体的な姿です。重い皮膚病の人は、当時「汚れている」と言われていました。重い皮膚病は神さまの罰を受けていると信じられていたからです。ですから、病の苦しみ以上に、ユダヤ人でありながら神さまの救いの外に置かれるという苦しみを背負っていました。汚れを人に移さないために人々から離れていることを強制されていました。おそらくこの人は人々から離れてイエス様の言葉を聴いていたのでしょう。そして、この方ならば自分を清めて神さまの元へと帰らせてくださる救い主だと信じて近づいてきたのです。これが「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の姿です。イエス様は、近づいてきた彼を「手を差し伸べてその人に触れ」て、迎え入れてくださいました。「手を差し伸べて」という言葉には「広げて」という意味もあります。つまりイエス様は片手を伸ばして触れたというよりも、両手を広げて迎え入れたと理解してよいと思います。「よろしい、清くなれ」という言葉も、癒しの宣言であるとともに、「そうだ、あなたは神の御腕の中にいる」という宣言です。救いの宣言です。山上の説教で語られた、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」「求めなさい。そうすれば与えられる」「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の実現がここにあります。

2018114日)

マタイによる福音書7章24~29節

 山上の説教の結びです。「これらの言葉」とは、これまでイエス様がお話しされた山上の説教の御言葉全てを指しています。イエス様が教えてくださったことは、天の国に入るためにもっとも大事なことは父なる神さまの愛を信じるということでした。そこから信仰者の生活も整えられていくのです。つまり、ここで言う土台としての「岩」とは、神さまの愛のことです。神さまの愛に支えられて人生の「家」を作る者は、天の国に通じる道を知っている賢い者だと教えられるのです。一方の「砂」とはそれ以外の全てです。神さまの愛以外に命を支えられることは、結局天の国に入る希望まで奪われてしまします。それは「愚か」です。当然みんな「岩」を選ぶはずです。しかし、実際はどうだったでしょうか。これらの言葉をお話しして、「それでは分かったね」とイエス様は天にお帰りになりませんでした。これらの言葉は「福音」の序章に過ぎないのです。そこでイエス様はすでに天の国に入る秘密を隠さず教えてくださいました。しかし罪によって目をふさがれたような私たちはついに自分で「岩」を選べなかったのです。皆が「砂」を選んで唯一の救いの「岩」を拒絶したのです。イエス様を十字架にかけてしまったのです。しかしこの十字架の上で死んでくださったイエス様が救いを成し遂げてくださいました。イエス様が「砂」に命をゆだねた罪の報いを引き受けてくださり、私たちのために救いの「岩」をもっとも深いところに据えてくださったのです。

20181021日)

マタイによる福音書7章21~23節

 イエス様はここで、ご自分を救い主、神の子としてあらわしておられます。それは、イエス様に向かって「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」、と言われたことからわかります。天の国に入る者を、イエス様こそが決められると言われたのです。この「イエス様によって天の国に入れるかが決まる」というところが重要なのです。この箇所を「主よ、主よ」と呼ぶだけではダメで、信仰の行いがなければならないと読んだら間違いです。なぜなら、イエス様から「不法を働く者ども」と呼ばれた人々は、イエス様の名で奇跡をいろいろと起こした人々なのです。行いに不足があるとは思えません。しかし、イエス様の名でこんなに大きな業を成し遂げたのだから天の国に入れるのは当然、と考えたところに決定的な間違いがあるのです。天の国に入るということは、一切を救い主であるイエス様にお任せするということです。イエス様を「主」と呼ぶのは、それによって奇跡を起こして功績を稼ぐためではないのです。罪深く、本来なら天の国にふさわしくない者のために、ただ愛をもって十字架にかかり、私たちを救ってくださったイエス様の愛に、一切をお任せすることなのです。このイエス様を「救い主」、「わが神」、「主」と正しく呼び、信じる信仰も神さまからいただくものです。徹底的に神さまの愛によってのみ天の国は私たちに与えられるのです。

20181014日)

マタイによる福音書7章15~20節

 山上の説教の結びに当たってイエス様は天の国に入るための注意を語られます。ここでは偽預言者に警戒するように言われます。この前の箇所の狭い門の話に関連させると、天の国に通じる狭い門である主イエスご自身へと私たちを導いてくれる人を見分けなさいと言われるのです。偽預言者は巧みに私たちを誘って、滅びに至る門へと導きます。ですから私たちには本物と偽物を見分けるのが難しいのです。そしてもう一つ私たちが警戒すべきは自分自身で道を開けると思う「自己流」の誘惑です。信仰の事柄には、何故か自己流で突き進む人が必ずいます。しかし、天の国に通じる門は「唯一」イエス様しかおられない狭い門なのです。私たちが自己流で開拓するのではなく、イエス様が切り開いてくださった十字架の道を歩むのです。だから自己流もとても危険なのです。そこでイエス様は「その実」で見分けるように言われます。その導き手に従っている者の姿を見て、本物か偽物かを見分けなさいと言われます。この点でイエス様は極めてリアリストです。ダメなものはダメなのです。神さまの救いは、あなたがたの気持ちが満足すればいい、というようなものではありません。本当に天の国に入ることが出来なければ、私たちには「滅び」しかないのです。そこで見分ける目を養い、私たち自分自身が、天の国に通じる道をイエス様と歩んでいるかを意識することが大切です。そこに狭い門を示す、世の人のための証しも顕れてくるからです。

2018107日)

マタイによる福音書7章13~14節

 マタイによる福音書の山上の説教の結びに入ります。山上の説教にはそれぞれの箇所ごとの小テーマがありますが、全体の大テーマは「天国に入るには?」ということです。そこでイエス様が言われたのが「狭い門から入りなさい」です。「狭き門」というと受験のことを思い浮かべますが、この狭き門は閉じてはいませんし、試験に合格する必要もありません。喜んで迎えてくれる天国に通じている門です。この門は、救い主であるイエス様ご自身のことを指しています。ただこの門だけが唯一天国に通じているという意味で「狭い」のです。十字架にかけられた救い主によって救われるという唯一の天国に入る真理に、多くの人が我慢できないのです。立派な、厳格な、善良な人間でなければ天国にふさわしくないと多くの人が思うからです。だから信仰者ほど失敗を恐れる者はいないと思います。神さまの求める正しさを満たせないと天国に入れないと思ってしまうのです。そこで他人の評価によって自分の正しさを確かめようとします。より厳しい修行で自分を天国にふさわしくしようとします。その方が実は歩きやすく、安心な道に思えるのです。しかし、その道は救い主が開かれた門ではありません。救い主が開いてくださった門は、罪ある者を迎えてくれる門です。主イエスご自身が罪人を担い、迎え入れてくれる門です。ただ神さまの愛によってのみ成立する門です。多くの者がこの神さまの愛に任せきれないのです。だから自分を納得させる評価を与えてくれる大きな道を選んでしまいます。しかし神の愛に背を向けて選んだ大きな道は滅びに通じているのです。

2018916日)

マタイによる福音書7章7~12節

  求めなさい。そうすれば、与えられる」というイエス様の言葉は、大変によく知られている言葉です。多くは人生を成功に導くマインドのように読まれます。またルカ福音書の文脈から、諦めずに祈ることを教えていると理解されます。しかしマタイ福音書では「人を裁くな」という教えと、「人にしてもらいたいと思うことは、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉に挟まれた文脈、そして山上の説教全体の文脈に注目すべきです。山上の説教において語られてきたテーマは「神の国で生きる」ということでした。これは人生訓や祈りだけの教えでありません。「求める」とは何を求めるのか?丸太のように神さまの御心を見えなくしている罪を取り除いていただくことです。「探す」とは神の国に入る道、救いの道を探すということです。「門をたたく」とは、神の国の門をたたいて神の国に入れていただくということです。その時に、互いに「裁く」ことで身を守ってきた関係から、「してもらいたいことを、人にする」という仕え合う隣人関係という、神の国に生きることが始まるのです。この言葉を語ってくださっているのは救い主であるイエス様です。罪を取り除けるために、十字架にかかって罪を身代わりに担って死んでくださった救い主です。この方が十字架にかかってくださったことで、私たちの求めた罪の赦しが与えられ、探した神の国につながる道が作られ、見いだされました。この方の十字架の救いにあずかって神の国の門をたたくとき、門は開かれます。そこでは罪人を裁く「石」も、再び罪に誘う「蛇」もありません。天の父が迎えてくださるのです。

201899日)

マタイによる福音書7章1~6節

 「人を裁くな。」これはイエス様の命令です。キリスト者は神さまに代わって人を裁いてはいけないのです。私たちは人の評価を気にして神さまの報いを失ってしまうことがあります。一方で私たち自身が人を評価し裁くこともあるのです。「裁く」というのは大変強い言葉です。白黒をつけるということですが、ここでは人を罪に定めるということでしょう。そこで、イエス様は言われます。「兄弟の目にあるおが屑は見える」、つまり他人の罪にあなたがたは敏感で、神さまに代わってそれを裁こうとする。けれども、「自分の目の中の丸太に気づかない。」自分の目の中に丸太があっては物を見ることなどできません。何が見えていないのでしょうか。それはまことの裁きをなさる神さまの御心です。神さまの御心が見えていないのに人を罪に定めるようなことは決してしてはいけない、とイエス様は教えられるのです。だからまずすべきことは自分の目の丸太を取り除くことです。どうしたら取り除くことができるでしょう。それは私たち自身にはできないことです。そのために来てくださった方が救い主であるイエス様です。おが屑や丸太は「罪」を譬えています。この罪を取り除くためにイエス様は十字架にかかってくださいました。そしてイエス様の十字架よって神さまの御心を私たちは見ること(知ること)ができるようになったのです。神さまの御心は「ひとりも滅びない」こと、「罪人を赦すこと」であったのです。この神さまの御心によって罪赦され、救いをいただいたのです。どうして人を「お前は救いに値しない罪人だ」と裁くことができるでしょうか。

201892日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...