伝道に遣わされる弟子たちへの最後の教えです。ここでイエス様が教えられるのは、神さまの気前の良さです。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」遣わされる弟子たちを、キリストの弟子として受け入れる人は、神さまを受け入れることと同じだと言われます。たとえば、わたしたちが教会へ来るときに自分自身は教会へ来なくても、「いってらっしゃい」と送り出してくれる家族がここに含まれます。イエス様の弟子(キリスト者)であるという理由で水一杯を飲ませてくれるような、ほんの僅かの親切でも神さまは決してお忘れになりません。必ずキリスト者と同じ恵みの報いを与えてくださいます。みんなが神さまに恵みの報いをいただくなら、キリスト者になって何の得があるのだろう、と考えるかもしれません。マタイによる福音書20章で、ぶどう園の主人に神さまは喩えられています。一日中働いた者にも、一時間しか働かない者にも同じ報いを与える主人に一日中働いた人は文句を言いました。しかし主人は答えます。「わたしの気前の良さをねたむのか」(20章15節)。私たちキリスト者も、気前のいい神さまの招きがなければ救いをいただくことはできませんでした。私たちキリスト者の存在は、神さまの気前の良さの証拠です。だから神さまの気前の良さに頼って伝道するのです。それは何とのびのびとした務めでしょうか。
(2019年5月5日)2021年9月15日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
マタイによる福音書28章16~20節
復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...
-
「姦淫するな」という掟は律法の中でも特に重要な十戒にある掟です。この掟から、主イエスは神さまの罪に対する厳格な姿勢を教えられます。神さまは私たちの心の中までご存知です。ですから、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われるのは、神...
-
「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」と主イエスは断言されます。天の国の門を開ける鍵となるのが「義」です。「義」とは正しいということです。この「義」を間違って理解すると、この主イエスのお言葉は私たちを絶...
-
「誓い」についての教えです。誓いに似た意味の言葉に「約束」があります。約束の保障として様々な担保を用意します。しかしどれだけ高価なものを用意しても、約束を「絶対」に果たすと言い切れはしません。そこで、最高の担保として「神」を約束の保障とすること、それが「誓い」です。誓いは、誓...
0 件のコメント:
コメントを投稿