2022年2月14日月曜日

マタイによる福音書19章1~12節

 イエス様に敵意をもつファリサイ派の人々が離婚について質問をしました。何か理由があれば離婚をしても律法に適っているか、という質問です。ここで問題となっている律法は、申命記241節のことです。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。律法の中で離婚について教えているのはこの箇所だけです。非常に厳格な人々は「恥ずべきこと」を姦淫の罪として解釈しました。別の学者は「恥ずべきこと」を言葉と解釈しました。どんな小さな言葉でも夫が気に入らないなら離婚できると解釈したのです。また別の解釈では、他に気に入った女性が現れたら、今の妻を「気に入らなくなる」ので離婚できるとまで言っています。それぞれの主張をする者は相手の解釈を批判していました。そこで、イエス様はどの立場をとられるのか、と試そうとしたのです。

 イエス様のお答えは、それらの解釈とは全く違いました。イエス様は創世記の御言葉をもって、結婚の深い意義を示されました。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女にお造りになった。」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」ファリサイ派の人々が「どのような理由があれば離婚できるのか」と聞いたのに対して、結婚は神の意思に基づいている、とお答えになったのです。そして神の意思に基づいて一体となったものを人は離してはならない、と言われました。

 イエス様が示されるのは、離婚の是非ではありません。根本には、「今、この人と共にいるのはなぜか」ということを言われています。結婚しているのは、神様がお命じになったからであり、それを恵みとしてお与えくださるのです。それは私たちと隣人との関係にも及ぶ事柄です。

イエス様の答えを聞いて、ファリサイ派の人々は、何故離婚ついて律法は命じているのか、と問いただしました。それに対するイエス様の答えは、命じているのではなく、「許したのであって、初めからそうだったのではない」でした。何故許されているのかと言えば、「あなたたちの心が頑固なので」と言われます。この頑固さは、罪の結果もたらされたものです。離婚は人間の罪によって生じたと言われるのです。そして、離婚を許さなければ、共に生きていくことができず、立場の弱い側を残酷な事態へと追い込みかねない人間の深刻な罪に対してモーセが示した手立てなのだ、と言われるのです。

 イエス様は律法を否定されてはいません。しかし、律法を権利のように考える人々に、離婚は決して権利として主張できるものではなく、離縁状を持たせろとモーセが命じたのも夫の身勝手な振る舞いから妻を守るためなのです。「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と言われます。根本には夫婦という神様によって「一体」とされた大切な隣人との関係をも破壊する人間の罪があります。

 イエス様の答えを聞いた弟子たちの中には、「妻を迎えない方がましです」という本音が漏れました。イエス様は弟子たちに「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」と教えられます。「恵まれた者」とは「与えられている者」という意味です。神様から賜物を与えられている人だけ、と言われるのです。イエス様は結婚に神様のご意思があることを明らかにされました。その神様の御心を受け止めることが信仰です。

 人間に頼る関係は脆いものです。結婚ですら、人間の誠実さによって支え切れないのです。それは結婚に限りません。結婚するにせよ、独身であろうとも、隣人との関係は神様の御心が与えてくださる賜物なのです。それを恵みと信じることができない「頑固」の罪のために恵みを喜べない私たちに、神様はイエス様を与えてくださいました。神様の恵みを、喜びをもっていただく人として、私たちを新しくしてくださるのです。

2020614日)

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