イエス様に手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れてきました。手を置いて祈っていただくのは、神様の祝福をいただくためです。日本でも偉いお坊さんに触れてもらうと無病息災のご利益があると信じられることがありますし、七五三や節句の祭りも子供の健やかな成長を願う儀式です。この時、イエス様の元に子どもを連れてきた人々も、そういった素朴な思いで手を置いて祈っていただくために来たのです。しかし、弟子たちは親たちを叱って、イエス様に近づくのを遮りました。
今日読みましたところは、多くの場合この後の「金持ちの青年」の話と結び付けて読まれることが多い箇所です。もちろんそれは大事な読み方です。同じ話を記しているマルコとルカの福音書も金持ちの青年の話を続けて書いています。子どものような者が神の国に受け入れられ、一方で金持ちの青年は財産を捨てることができなかったので、神の国に入ることができなかった。単純に言えばそういう解釈です。ただ、マタイによる福音書だけは、この話を前回の離婚についてのイエス様の教えが語られたことと結びつけています。そこは、実は重要な違いです。
離婚についての教えは、「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。…受け入れることのできる人は受け入れなさい」というイエス様の言葉で終わっていました。つまり、ここでマタイによる福音書が記すのは、離婚についてイエス様が示された神様の御心によって始まる隣人との祝福の関係を受け入れられない人の姿を弟子たちの態度によって示されています。
人々がイエス様の元に子どもたちを連れてきたのは、ある意味では身勝手な信仰によるものです。弟子たちのようにイエス様に従っているわけではなく、イエス様の都合も考えずにやって来て、祝福をいただいたらさっさと帰っていくのです。そんな身勝手な人にお忙しいイエス様が付き合う必要はない。自分や家族のことばかりで、教会で奉仕することもない人々のことが我慢できなくなって、責めるようになるのです。神様との関係を妨げる、「つまずき」となってしまいます。
そんな弟子たちにイエス様は言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。」子供たちは「連れて来られて」いるのですが、それをイエス様は、子供に「来させなさい」、子供を「妨げてはならない」という言い方をされました。イエス様は、子供たちへの祝福を求めている親たちの思いをそのまま認め受け入れておられるのではありません。偉いお坊さんに触れてもらって無病息災を願ったり、七五三に子供の健やかな成長を願ってお参りをするような思いを受け入れて叶えてあげようとしておられるわけではないのです。ご自身の御心をもって子供たちを喜んで迎え入れ、祝福を与えようとしておられます。
「天の国はこのような者たちのものである」という言葉は、子供を理想化して言っておられるのではありません。神様の御心を受け入れることのできる恵まれた人は、神様に受け入れられている恵みをいただいくことに土台があることを教えられるためです。子供たちは、親に連れて来られるままにイエス様のもとに来ました。そしてイエス様が受け入れ、祝福して下さるなら彼らは祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰ることになるのです。つまり彼らはイエス様によって与えられる神様の祝福を全く受動的に、ただ受けるのみです。
連れて来られた子供たちには、離婚についてファリサイ派や弟子たちが抱いていたような祝福を受けたり、拒んだりする権利の主張というものがないのです。神様に対して、交換条件と言うか、自分はこれだけのことをしている、だから、あなたの結びあわせてくれた夫と、妻と離縁する権利がある。これだけのことをしているのだから、私は神様に祝福を要求する権利があると主張する。そういったことが全く出来ない者、ただ神様の恵みをいただくしかない者です。イエス様はそのような子供たちを喜んで迎え入れて下さり、手を置いて祝福して下さるのです。天の国、神様の恵みのご支配はこのようにして与えられるのです。
(2020年6月21日)
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