2021年8月18日水曜日

マタイによる福音書5章14~16節

 主イエスは、私たちを「世の光」と呼んでくださいます。光は灯されると隠れることができません。また、光は周りを照らして助けます。キリスト者は世にあってそのような役目を新たに神さまからいただきます。この光は「火」です。主イエスによって灯していただいた火です。この光を「立派な行い」と言われます。これは、この前に言われている「地の塩」としての塩味のことです。神さまの似姿として柔和に、平和に、義を求め、悲しみを共にすることです。信仰者として、道徳的に優れているとか、どれだけ自分を犠牲にしているかということを言いたいのではありません。それは、ただ地の塩として、福音に生かされる者になり、世の光として福音を宣べ伝える者になるということです。 ただ、イエス様に塩味を付けられた者として、隣人を無意味なものとせず、隣人に向き合っていく、そして神様の用いる「地の塩」として、隣人を塩気をもって生かします。それが、主イエスとの出会いへとつながり、主イエスによって父なる神をあがめるようになります。わたしたちは「世の光」として、罪の支配ではなく神さまの救いが訪れたという福音に生かされ、救いの光を身に帯びて、福音をあらわして世に生きていきます。そうして隣人に仕えます。これが主イエスによって新しいいのちをいただいた私たちに、神さまがお与えくださったつとめです。

20171210日)

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