2021年8月18日水曜日

マタイによる福音書5章13節

 主イエスは、私たちを「地の塩」と呼んでくださいました。それは、私たちが生きるのに塩が不可欠なように、地の被造物にとって不可欠な存在だということです。人はもともと「神の似姿」をいただき、神さまの義、柔和、平和、憐れみを生きる存在でした。それが地にとって「塩」のように不可欠なものでした。しかし、罪を犯し、神さまを離れた時から人は「塩気」を失いました。罪によって打ち捨てられ、悪に踏みつけられる者となりました。暗闇に住む者、死の陰の谷に住む者のようになりました。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」(13節)。失った塩気を人は取り戻すことはできません。被造物の何物にもできません。しかし、唯一「塩気」を取り戻してくださる方、与えてくださる方がおられます。来てくださったのです。それが私たちを「地の塩」と新しく呼んでくださった主イエスです。主イエスが私たちから「塩気」を奪った罪を十字架の上で贖い、新しいいのちを与えてくださいます。主イエスの十字架と復活によって、私たちは被造物世界に不可欠な、義、平和、柔和、憐れみに生きる新しいいのちをいただくのです。被造物の中で哀れな存在であった罪人を、地にとって不可欠な、大切な「地の塩」にすることが神にはできるのです。「それは人間にできることではないが、神には何でもできる」(マタイ1926節)。これが福音です。

2017123日)

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