神の子、神の民となったものが味わうことというのはなにかと言えば、それは「迫害される」ということです。主イエスはその迫害される者のことを、「義のために迫害される者」と言われます。義のためにというのは、「正しさのために」ということですが、それは主イエスのお言葉の中で「わたしのために」(主イエスのために)と言い換えられています。天の国に国籍を得て、神の子、神の民とされたキリスト者の正しさとは、主イエスのために、主イエスに従って歩む生き方です。それはこの世の罪の常識からは離れた生き方です。そのために、この世から嘲られ、軽んじられ、ののしられることがあります。信仰による考え方や価値観を周囲の人に理解してもらえないということは沢山あります。しかし、そのことが「主イエスのため」になります。もちろん、主イエスが私たちの苦しむ姿を望んでおられるということではありません。迫害されるというのは、主イエスのことが私たちを通して世に示されるからです。その時、私たちは紛れもない神の子、神の民なのです。私たちを用いて主イエスがお示しになる主イエスの義しさに人々は触れるのです。その義しさに触れることで、最初は迫害していいた者が、回心し、神の民にされるということが起きます。神さまの救いの御業に私たちがあずかるのです。それゆえに、主イエスは迫害されたときも、「大いに喜びなさい」と言われます。神さまの御業に加わる神の子に与えられる神さまの報いは大きいのです。
(2017年11月19日)
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