イエス様にペトロが質問をします。「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエス様は「七の七十倍までも赦しなさい」と言われて、たとえ話をなさいました。先週一緒に聞いた「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉で始まるイエス様の教えと明らかに関係しています。つまり、ここも「小さな者を受け入れる」という教会への教えが続いているところです。先週の箇所では罪を犯した兄弟への忠告が教えられていました。それに続けて、たとえ話でイエス様は兄弟を赦すことを教えられます。
たとえ話は、主君に対して絶対に返済不可能な莫大な借金を負っていた家来が、主君の憐みによって借金を帳消しにしてもらいます。ところが、その家来は少額を貸していた同僚に返済を迫って彼を牢に入れてしまいます。それを聞いた主君は怒って、「不届きな家来だ。…わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言い、家来を牢役人に引き渡します。
イエス様のたとえ話は、赦すことの「本質」を語っておられます。赦しの根拠を教えておられます。それは私たちの赦しについての考えを根底からひっくり返すようなことです。最初のペトロの質問では、「何回、どこまで赦すべきか」を聞いたのに対して、イエス様は、「なぜ赦すべきか」を語っておられます。
たとえ話で家来が主君に対して負っていた借金は、私たちの神様に対する罪を表しています。自分では償うことのできない、解決できない罪を神様に赦していただきました。だから、兄弟を赦すのは、「当然のことだ」、「当たり前だ」とイエス様は語られます。
私たちが兄弟の罪を赦すのは、自分の罪が神様によって赦されたからです。自分が神様の憐みをいただいているから、自分も人を赦すのです。人を赦すということは私たちの「何回なら赦せるか」という事情や決心に根拠があるのではない、ということです。「七の七十倍まで赦しなさい」という言葉は、もちろん490回赦しなさいということではありません。無限に赦しなさい、ということです。何故なら、人を赦すことは、決意や努力に根拠を持つものではないからです。
人が自分に対して犯した罪と比べものにならない大きな罪を神様に赦されていることを、本当に信じるならば、「七の七十倍まで赦す」ことが、当たり前になる。それがこのたとえ話でイエス様が語られることです。
ペトロの言う「七回まで」というのとイエス様の言われる「七の七十倍まで赦す」ことの違いは、回数や程度の問題ではありません。「本質」の違いです。「赦す」ことの意味そのものが違っているのです。この違いは、罪の支配と「天の国」(18:1)という全く違う「質」に由来していることなのです。
18章の一番初めの弟子たちの質問は、「天の国でいちばん偉いのは誰か?」でした。それに対してイエス様がお答えになった「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国にはいることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」という御言葉の深い意味が私たちにも少しずつ啓かれてきます。
神様の憐みと赦しの恵みによって生かされるところが天の国です。天の国を満たす神様の御心は「憐れみと赦し」です。「心を入れ替える」とは、神様の憐みと恵みの下で生きる「本質」が変わるということです。子どもが与えられたものをいただいて生きるように、神様の憐みと赦しを食べるように、いただくこと無しに天の国で生きることはあり得ないのです。そして、神様の憐みと赦しに生かされた者にとって、赦しは果たすものではなく、神様の憐みと赦しの恵みの下で生まれてくるものなのです。食べたもので生かされるように、食べたもので力が湧くように、まことの父である神様の憐みと赦しによって新しいいのちに生かされ、赦しが湧いてくる。そんな神様の子どもが天の国で一番なのです。
「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(18:5)とイエス様は言われました。神様がまず私たちを赦し、受け入れてくださいました。独り子であるイエス様の十字架によって、罪の支配から解き放ち、神の国の自由を与えてくださいました。その憐れみと赦しの恵みの中で私たちは人を赦すことができます。赦された者だから、赦すことを当然のこととして生きるのです。そこに「七の七十倍」という「兄弟を得」(18:15)、兄弟を回復する赦しが生まれます。小さな者を受け入れるとは、赦しを自然に生きることです。
(2020年5月24日)
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