18章は教会について教えていると言われます。この章の中で、イエス様が特に大事にお話しされてきたのは、「小さい者を受け入れる」ということです。神様が小さい者をどれほど大切に思っておられるかを一匹の羊を探し出すたとえ話を通して教えてくださいました。神様が大切にされる小さな者とは、私自身のことであり、同時に主イエスの名によって出会う隣人たちです。教会は大きな愛の神様によって大切にされている小さな者が集うところです。
小さな者の「小さい」所以は、罪に対する弱さにあります。今日の聖書では、小さい者同士の関りを罪との関係で教えておられます。ここで、兄弟に対して罪を犯した者は「小さな者」です。しかし同時に、罪を犯された者も「小さな者」です。
小さい者を受け入れるということと、罪を曖昧にすることとは違います。罪はイエス様が十字架で私たちの身代わりとなって死んでくださったほどに、神様にとって見過ごしにできない事です。それは小さい者同士の間でも同じです。罪は指摘され、そこから離れることが忠告されます。
しかし、それは「裁く」こととは違います。「裁く」ことではなく「受け入れる」ために忠告をしなさいとイエス様は教えられます。だから、最初の忠告は「二人だけ」で行われます。次も最小の証言者と共に忠告をします。その後、初めて教会に申し出ることになります。教会も裁きの場を設けるのではなく、忠告をします。そして、教会の忠告も聞き入れないなら、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」、と教えられています。
異邦人や徴税人と同様に見なすとはどういうことでしょうか。「異邦人や徴税人」とは、聖書では神の民が交わりをもてない人々を表す言葉です。そうすると、教会の忠告も聞き入れないならば、もう受け入れるわけにはいかないので、教会から除外しなさいということでしょうか。
イエス様は地上において徴税人と食卓を共にされ、ザアカイのような徴税人の頭の家で、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われました。イエス様の十字架と復活の救いは異邦人にとっても救いの光です。それは、罪の赦しの福音です。
そこで想い起すのが、すぐ前にイエス様が語られているたとえ話です。先週は迷い出た1匹と、1匹を諦めずに探し出す神様に焦点を当てましたが、このたとえ話には、99匹の残された羊たちが登場しています。今日の箇所は、残された99匹となる教会への教えとして聞くことができます。
教会自身も小さな者の集まりです。だからどんなに心を込めて忠告しても聞き入れられないことが起こります。罪を犯し、そこから離れられない小さな者こそ、100匹の内の迷い出てしまった1匹のことです。99匹の残りの者にはどうすることできないのです。迷い出た羊を連れ帰ってくださるまことの羊飼いであるイエス様を信頼し、お任せしなければならないのです。それは教会にとって痛みを伴う決断かもしれません。なぜなら、それは兄弟を「異邦人や徴税人と同様」に見なすということだからです。小さな者の群れである教会は、決して万能ではありません。罪を離れない迷い出た小さな者が交わりから離れていくことを悲しみつつ受け入れるしかないことが起こります。交わりを絶たれることが起こりますし、教会から罪の内にある人との交わりを離れなければならないこともあります。残された99匹として待たなければならないのです。
続く18節で語られる「つなぐこと」、「解くこと」も、19節の二人が地上で心を一つにして求めることも、二人または三人がイエス様の名によって集まるところに、イエス様もその中にいて下さるという約束も、残された99匹の羊となる教会へのイエス様の教えです。罪の中に迷い出た小さな者である兄弟を、見つけ、連れ帰ってくださることを神様に祈る、残された99匹である教会への祈りの教えであり、約束であり、励ましです。
「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)というイエス様のお言葉を信じて、兄弟が帰ってくることを信じて祈り、共にいてくださるイエス様に励まされつつ待つのです。
(2020年5月17日)
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