「迷い出た羊」のたとえ話はイエス様が語られたたとえ話の中でも良く知られたものだと思います。マタイによる福音書は、このたとえ話を「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」というイエス様のお言葉と結びつけて記しました。
既に先週読みました6節以下に、イエス様を信じる教会の交わりにおける小さな者の一人をつまずかせることへの警告が語られていました。「つまずかせる」とは、信仰の妨げとなって、神様、イエス様を信じ続けることができなくしてしまうということです。人を「つまずかせる」ことの原因は、その人を「受け入れない」ということです。人を受け入れてないことから、その人をつまずかせる、信仰を妨げるということが起こるのです。どうして受け入れないのか。それは自分自身が神様に受け入れられていることを信じていないからです。
先週は深く触れることができませんでしたが、7節に「つまずきは避けられない」とイエス様は言われました。私たちはつまずきをもたらされたら、それを避けることができない、と言われるのです。つまずきに私たちは対処できないのです。避けることもできない。だからこそ、小さい者にも自分にもつまずかせてはいけない、気をつけなさいと言われます。しかし、避けられないつまずきに神様を、イエス様を見失ってしまったらどうなってしまうのか。人は再び神様の前から迷い出て失われてしまうのでしょうか。
そのことをイエス様は次に続くたとえ話の中で語られていきます。神様にとって、失われた一匹の羊の存在はとても大切なものです。その大切な一匹が失われてしまうことを悲しまれます。その一匹を探し回り、神様の群れへと戻ってくることを何よりも喜んで下さるのです。ここに神様のお姿、小さな者への愛が示されています。そのために、まことの羊飼いとして独り子のイエス様が世に来て下さり、見つけ出して、神様のもとに、私たちが本当に生きることができる父なる神様のもとに連れ帰って下さいます。そして神様ご自身がそのことを心から喜んで下さり、私たちを温かく迎え入れて下さる、そういう恵みがたとえ話によって語られています。
明らかに、「迷い出た羊」とは、つまずき、失われようとする「小さな者」のことです。18章は教会のことを教えています。神様の御心をもって歩む教会とはどのような群れなのかを教えています。神様の御心のなる教会において、「小さな者」とは私たちすべての人間のことです。教会において「大きな方」は神様の他に何ものもいません。そうであるならば、「小さな者」とは、共に教会に集う仲間のことであるし、同時に私自身のことです。イエス様はたとえ話を通して、はっきりと教会の仲間もあなた自身も誰一人として神様は失ってよいとお考えにはなっていないこと、迷い出た一匹を探し求めて諦められないことを教えてくださいました。最も「大きな方」が、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と言われます。
そして、そのためにイエス様を私たちに与えてくださいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。確かにイエス様は十字架にかかられ、私たちを救いへと招いてくださったのです。私たちはつまずきを与えてしまうことにも、つまずきを与えられた時にも、あっという間にイエス様を見失い、神様の愛を信じることができなくなってしまいます。本当につまずきに弱い者です。しかし、私たちは見失ってしまっても、悔い改めて帰る道を見つけられなくなっても、神様が、イエス様が私たちを探し出してくださいます。誰一人神様の前から失われはしないのです。それがここでイエス様が語られる真理です。
変わることのない神様の確かな愛のご決意をイエス様は十字架によってあらわしてくださいました。ご自身を私たちの代わりに死に渡してくださいました。だから、私たちは自分が、神様の愛から失われることを心配しなくていいのです。無邪気なほどに、もっと大胆に言えば、幼い子どものように無神経なほどに私たちは天の父である神様の愛を信じ切っていいのです。他の人々も同じ神様の愛の中にいると信じるのです。
イエス様をお与えくださった神様の愛が、つまずきを超えて私たちを集めてくださいます。そこに教会の群れが生まれ、育つのです。
(2020年5月10日)
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