2021年9月2日木曜日

マタイによる福音書7章21~23節

 イエス様はここで、ご自分を救い主、神の子としてあらわしておられます。それは、イエス様に向かって「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」、と言われたことからわかります。天の国に入る者を、イエス様こそが決められると言われたのです。この「イエス様によって天の国に入れるかが決まる」というところが重要なのです。この箇所を「主よ、主よ」と呼ぶだけではダメで、信仰の行いがなければならないと読んだら間違いです。なぜなら、イエス様から「不法を働く者ども」と呼ばれた人々は、イエス様の名で奇跡をいろいろと起こした人々なのです。行いに不足があるとは思えません。しかし、イエス様の名でこんなに大きな業を成し遂げたのだから天の国に入れるのは当然、と考えたところに決定的な間違いがあるのです。天の国に入るということは、一切を救い主であるイエス様にお任せするということです。イエス様を「主」と呼ぶのは、それによって奇跡を起こして功績を稼ぐためではないのです。罪深く、本来なら天の国にふさわしくない者のために、ただ愛をもって十字架にかかり、私たちを救ってくださったイエス様の愛に、一切をお任せすることなのです。このイエス様を「救い主」、「わが神」、「主」と正しく呼び、信じる信仰も神さまからいただくものです。徹底的に神さまの愛によってのみ天の国は私たちに与えられるのです。

20181014日)

0 件のコメント:

コメントを投稿

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...