「人を裁くな。」これはイエス様の命令です。キリスト者は神さまに代わって人を裁いてはいけないのです。私たちは人の評価を気にして神さまの報いを失ってしまうことがあります。一方で私たち自身が人を評価し裁くこともあるのです。「裁く」というのは大変強い言葉です。白黒をつけるということですが、ここでは人を罪に定めるということでしょう。そこで、イエス様は言われます。「兄弟の目にあるおが屑は見える」、つまり他人の罪にあなたがたは敏感で、神さまに代わってそれを裁こうとする。けれども、「自分の目の中の丸太に気づかない。」自分の目の中に丸太があっては物を見ることなどできません。何が見えていないのでしょうか。それはまことの裁きをなさる神さまの御心です。神さまの御心が見えていないのに人を罪に定めるようなことは決してしてはいけない、とイエス様は教えられるのです。だからまずすべきことは自分の目の丸太を取り除くことです。どうしたら取り除くことができるでしょう。それは私たち自身にはできないことです。そのために来てくださった方が救い主であるイエス様です。おが屑や丸太は「罪」を譬えています。この罪を取り除くためにイエス様は十字架にかかってくださいました。そしてイエス様の十字架よって神さまの御心を私たちは見ること(知ること)ができるようになったのです。神さまの御心は「ひとりも滅びない」こと、「罪人を赦すこと」であったのです。この神さまの御心によって罪赦され、救いをいただいたのです。どうして人を「お前は救いに値しない罪人だ」と裁くことができるでしょうか。
(2018年9月2日)2021年9月2日木曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
マタイによる福音書28章16~20節
復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...
-
イエス様を殺すために、人々はイエス様を総督ピラトへと引き渡しました。そこでイエス様はピラトの尋問を受けられます。その間にイエス様を裏切ったユダの死について福音書は記しています。ユダはイエス様が有罪となったことを知り、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と神殿で告...
-
はじめまして。 日本キリスト教団西荻教会で牧師をしている有馬尊義といいます。 このブログには、2017年5月28日から2021年8月8日まで西荻教会の日曜礼拝で語ったマタイによる福音書の説教要約を掲載していきます。 新型コロナウイルス感染症の危機の中で、Youtubeでの説教配信...
-
17 章は、イエスさまが高い山に、弟子の中で主だった3人を連れて登られ、その山の上で、まぶしい栄光の光に輝かれたという不思議な場面から始まっていました。この場面に立ち会った3人の弟子たちは、その栄光をずっと自分たちの手の中に持ち続け、その経験に浸りたいと願いました。けれども...
0 件のコメント:
コメントを投稿