2021年10月7日木曜日

マタイによる福音書13章44~46節

 小さなたとえ話が二つ続いています。たとえ話の言葉のみで読むと、畑に隠されていた宝と高価な真珠が神様の救い、畑で宝を見つけた人と商人が神様の救いを求める人にたとえられているように聞こえます。神様の救いは、全財産を売り払ってでも手に入れるべきものです。しかし、それは偶然見つけた宝のように、救いは偶然の賜物なのでしょうか。高価な真珠を探し求めても見つからないかもしれません。そもそも、洗礼を受けた私たちは、一体いつ全財産を要求されたでしょうか。全財産と引き換えに神の救いを買うことなどできません。つまりこのたとえ話もイエス様を抜きに考えると行き詰ってしまうのです。そこで、イエス様を鍵として聞き直すと、このたとえ話はまるで違ったものになります。畑で宝を見つけた人と真珠を探している人は、イエス様のことです。そして宝や真珠に喩えられているのは、神様の救いをいただいた私たち自身です。イエス様は私たちを救うためにご自分の一切を捨てて世に来てくださった救い主です(フィリピ268節)。世に来られ、高価な真珠を探す商人のように、御国の子としての私たちを見つけ出してくださいました。そして、御自分自身の命を、私たちを罪から贖うための代価として与え、十字架にかかってくださいました。イエス様の十字架によって私たちは神様の救いをいただいたのです。私たちが探し、私たちが代価を支払うのではありません。イエス様によって私たちを救ってくださることこそ、神様の御心なのです。

20191117日)

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