2022年2月14日月曜日

マタイによる福音書20章1~16節

 ぶどう園の主人は神様、ぶどう園が神の国、労働者は私たちのことを表しています。支払われる「1デナリオン」は、神様の与えてくださる救いを意味しています。この主人は夜明けに出かけて労働者を雇います。何度も出かけます。自分で出かけて、自分で見つけて、自分で対価を約束しています。さらに、賃金を支払う方法まで指示をしています。すべてを自分の意志で定めています。賃金が払われた時に、最初に雇われた者たちが、最後に雇われて1時間しか働かなかった者と同じに扱われたことに文句を言います。それに対する主人の答えから、賃金である「1デナリオン」は労働の対価ではなく、労働者に対する主人の愛と憐みから与えられていることが明らかになります。このたとえ話の大事なことは、一切が主人によって決められ、実行されていることです。「金持ちの青年」(1916節)から本日の「ぶどう園の労働者」のたとえまで、救いについて一貫した主題が語られています。「人は自分の救いを定めることができないが、神にはできる」ということです。だから、何をしたら救われるかと考えるのは見当違いなのです。救いは神様の愛と憐れみによって与えられます。イエス様の十字架によって与えられます。皆、神の国に招かれています。神の国に入れられて、主人の願う労働に励むのです。神様の望む天の国の労働とは、「隣人を自分のように愛しなさい」(1919節)ということです。

2020719日)

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