祭りの時に、民衆の希望する囚人を特赦するという習慣がありました。当時、評判となっていたバラバ・イエスという囚人がいました。他の福音書によれば強盗と殺人の罪を犯した男です。ピラトは民衆に問います。「どちらを釈放して欲しいのか。バラバ・イエスか、それともメシアといわれるイエスか。」この問いかけは、大きな意味を持つ問いかけとなりました。死をもたらすバラバか、救いをもたらすメシアか、を問いとして福音書は記しました。そして、この世はこぞってバラバを選んだのです。教会はこれらの人々の中に、罪人である自分自身もいるのだと思ってこの記事を読んできました。裏切ったユダ、知らないと言い張ったペトロ、罪のない者の死を願う祭司長たち、深く考えることもしないで十字架に着けろと叫ぶ群衆、無責任なピラト、一人の人を嘲り、傷つけて楽しむ兵士の姿に、どこかに罪人としての自分自身を見い出したのです。それゆえに深く知らされるのです。ここに唯一人じっと沈黙を貫き、この罪に対する神様の裁きを代わって受けてくださっている方がおられる。救い主の沈黙を知って、キリスト者と教会は悔い改めを重ねてきました。罪は神さまに訴えるのです。「罪深く、あなたの愛する子の死を願う、救いようのない者たちを、今こそ裁き、滅ぼすべきではないか。今こそ、完全に彼らを捨て、離れるべきではないか。彼らは神に捨てられて当然のことをしている。この罪から逃れる者はこれまでも、これからも一人もいない。」しかし、神様と救い主であるイエス様の御心は変わりませんでした。ここに神の愛があります。
(2021年6月20日)
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