2022年6月7日火曜日

マタイによる福音書27章32~44節

 福音書は十字架で死なれたイエス様を伝えるために記されました。マタイによる福音書の十字架の記事は、他の福音書と比べると旧約聖書の預言の引用などはなく、事実をそのままに記している印象があります。その中で、マタイによる福音書が丁寧に記したのは十字架につけられたイエス様を見た人々の言葉です。人々がイエス様をののしり、侮辱した言葉が記されています。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗たちもイエス様をののしりました。繰り返されているのは、「自分を救え」、「十字架から降りて来い」という言葉です。さらにマタイによる福音書はこれに「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と記しています。イエス様の宣教の初めに、荒野でうけられた悪魔の誘惑を思い出します。しかし真に神の子であるイエス様は、ご自分を十字架から降ろされませんでした。ご自分を救うことができなかったのではなく、救わないことを決意してくださっていたのです。もしも、イエス様が十字架から降りられたなら、代わって神さまの裁きを受けるのは、私たち罪人の方です。「他人」である私たちを救うために、イエス様はご自分を救うことをなさらなかったのです。ここに、救い主の愛があります。そして、それは他ならない父なる神の御心でした。神様の御心に従ってイエス様は十字架にかかってくださったのです。人々のののしり、侮辱する言葉を、まさしくそのままに現実にお引き受けくださったことによって、私たちに救いが与えられたのです。

202174日)

0 件のコメント:

コメントを投稿

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...