2021年8月19日木曜日

マタイによる福音書6章5~6節

 主イエスの祈りについての教えが始まります。まず第一に祈りは神に向けてされるもので、人に評価されるものではないことが教えられています。人に見られようとしてする祈りは「偽善」とまで言われています。徹底的に神に向かうことが求められています。そこで奥まった部屋で独りで隠れたところにおられる神に祈るようにと教えられています。何とかして偽善者となることを避けなければなりません。しかし、私たちは祈りにおいて自分自身の満足のために祈りを利用することすらあるほどに弱い者です。祈りが神に向かわずに独り言になってしまうことがあります。自分の迷いや不安を祈りの中で言葉にすることで、満足してしまうことがあります。祈った気になるのです。しかし、その祈りは神に向けられていません。報いを自分自身から受け取ってしまうのです。だからこそ、ここで主イエスは父なる神を隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる方として紹介されます。偽善者として神以外から報いを受けてしまう取り繕った私たちの心の奥底の隠れたところを神はご覧になれるのです。これは恐ろしいことでしょうか。むしろ逆です。神は、罪の底に沈む、もっとも隠された神を求める声を聞かれるのです。偽善の罪の底を訪れて、なお真実の祈りを聞き分けてくださろうとする方なのです。それは主イエスによって実現する祈りの奇跡です。どんなに神に祈りを向けようとしても、罪に遮られ、神以外に心を奪われる私たちの祈りは、「祈りの主」となってくださる「主イエス・キリストの御名」によって担われ、執り成されて、父に見ていただける祈りとなるのです。

201848日)

 

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