主イエスの祈りについての教えが続いています。ここでは、異邦人のように祈ってはならないと教えられています。異邦人というのは、外国人のことですが、「神を知らない人々」と理解をすると良いでしょう。神さまを知らない異邦人は、祈りを「くどくどと述べ」ます。何度も繰り返すということです。何度も繰り返し、繰り返すほど祈りのパワーが増すと思っている。祈りのパワーを増し何とかして神さまを振り向かせよう、神さまに祈りを届けようとするのです。もちろん、言葉を繰り返しても、祈りが力を持つということはありません。祈りを支えるのは私たちの熱心ではなく、私たちの祈りを聴かれる神さまの愛です。神さまは必ず聴いてくださるのですから、たった一言で十分なのです。また、「言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている」というのは、祈りをたくさんの言葉で飾るということです。会ったことのない人にお願いをするのであれば、そういったことも必要かもしれませんが、わたしたちの父である神さまは「願う前から、あなたがたに必要なものをご存知」の方です。だから、言葉を飾って願いを聴いてもらおうとする必要はないのです。ここでも大事なことは神さまは必ず祈りを聴いておられるということです。わたしたちの父として主イエスが教えてくださる神さまは、私たちのことを私たち以上にご存知の方です。それなら何故いのるのでしょうか。それは、祈りは願い事だけではないからです。父である神さまと出会うことです。最も小さい礼拝と言っても良いでしょう。神さまを知っている者、信仰者の祈りは、神さまとの愛の交わりとなるのです。
(2018年4月15日)
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