2021年8月19日木曜日

マタイによる福音書6章9節

 今日からマタイによる福音書の伝える「主の祈り」を少しずつ読んでいきます。聖書には、腑に落ちると途端に多くの分からなかった御言葉を悟らされ、信仰が光のように差し込んでくる「肝」ともいうべき言葉があります。主イエスの「十字架」や「復活」はまさにそうです。そして祈りにおいて「肝」となるのが、「天におられるわたしたちの父よ」という最初の呼びかけです。特に神さまを「父」と呼べるということです。この「父」という言葉は最も日常的な「お父さん」という言葉です。少なくともユダヤの人々にとって「父よ」という神さまへの呼びかけはあり得ない、異常といえる呼びかけでした。神は恐ろしい方であり、名前を呼ぶことすら赦されず、「主」と言い換えていたほどです。なぜなら、神さまが近寄るならば、罪ある人は滅びるしかないからです。決して神さまは、親しく「父よ」と呼べる方ではありませんでした。しかし、主イエスは繰り返し神さまを「父」として教えられ、祈りにおいても「父」と呼びかけることを教えられます。それは、偽善者や異邦人のように神さまの御心を知らないで祈るのではなく、私たちを「愛して」おられることを知った者の祈りだからです。わたしたちはいろいろ重荷を負っています。その時「しかし、神さまはわたしの父」と祈りのたびに告白します。神はわたしたちの本当に奥底の隠れたことを見られ、願う前から必要なものをご存知でいてくださるのです。そして「父」として大きな祝福を約束してくださるのです。

2018422日)

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