福音書は、イエス様が人々から離れて祈っておられたことを度々記しています。ゲツセマネはイエス様がお一人で祈られるときにこれまでも訪れてきた場所だったのでしょう。しかし、この時は弟子たちの中から三人をお連れになりました。後の教会へイエス様の祈りを証人として伝えさせようとなさるかのように、御自分の祈りを見せ、聞かせられました。また、一緒に祈るように求められました。イエス様の祈りは、十字架の死の悲しみから絞り出された祈りでした。祈りの姿勢は、「うつ伏せ」と伝えられています。神様の他に頼るところのない深い嘆きと苦しみの中にいる者の祈りです。その中でイエス様は、十字架の死を過ぎ去らせてほしいと願われました。まことの人となられたイエス様だからこそ、神様に裁かれ、捨てられる死の恐ろしさをよくご存じだったからです。しかし、イエス様は三度、父なる神からその願いを拒絶されました。イエス様は、御自身の願いではなく父なる神さまの御心が行われるように願われました。私たちも「御心が行われる」ことを祈ります。しかし、本当に御心が行われることを願うというのは、神様に問題を丸投げして考えないことではなく、深く考え抜き、最後まで神様に祈り、神様の御心の前に打ち砕かれることです。イエス様は、祈りについて「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6章6節)と教えられました。ゲツセマネの祈りは、イエス様の密室の祈りを明らかにし、「御心が行われるように」という祈りの重さを示してくださっています。
(2021年5月2日)
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