ゲツセマネの祈りの直後、イエス様はイスカリオテのユダに案内された人々に捕えられます。ユダはイエス様を見分けるために接吻を合図にしていました。彼は「先生」と呼びかけて接吻します。これまで弟子たちはイエス様を「主」と呼んでいました。しかし、ユダはイエス様を救い主として「主」と呼ぶことを止めていました。ユダにイエス様は「友よ」と呼びかけられます。友という関係は、ギリシア語圏の文化では、友愛という重要な愛の関係と考えられていました。血縁に寄らずに、ただ愛によって成立するのが友愛だからです。最高の愛と考えられていました。ユダの裏切りの接吻に対して、イエス様は愛をもって応答されたのです。救い主を裏切るユダの罪は生まれない方がよかったと言われるほどの深い罪でした。しかしイエス様は決してユダを罪人として迎えることはなさいませんでした。罪人に定めず、愛する者として迎えられました。それだけでなく、これらのことは、聖書の言葉、預言者たちの書いてきたこと、つまり神様の御計画として「実現されなければならない」と重ねて語られました。イエス様は、ユダも、ご自分を捕えに来た人々も、逃げ去った弟子たちも、誰一人として「罪人」となさいませんでした。ここに私たちの罪を担い十字架で死なれる救い主の愛があります。この愛に触れた時、ユダの裏切りの時が止まりました。イエス様はユダの救い主でした。イエス様は、他に手段がないから諦めて十字架の死を受け入れられたのではありません。私たちを愛し、愛し抜かれたからこそ、十字架への道にご自分を預けられたのです。
(2021年5月9日)
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