2022年6月7日火曜日

マタイによる福音書23章25~39節

 偽善者の不幸についてのイエス様の教えの後半です。後半では、偽善者は外面を取り繕うことで、内面の汚れを隠せると思っていることです。しかしそれは、内面をもご覧になる神さまに背を向けていることを意味しています。偽善とは、神さまに背を向けていることであり、人の評価や自分自身の満足を求めてしまうことです。神様以外の者に仕えているという点で、偽善とは偶像礼拝そのものなのです。だからこそ、必ず裁かれなければならない恐るべき罪なのです。しかし、この偽善者の不幸を暴くイエス様の御心はどこになったのでしょうか。それは、悔い改めを求めることです。偽善者は必ず裁きを受けます。だから、イエス様の弟子である預言者たちを送るとイエス様は続けられます。「先祖が始めた悪事の仕上げ」として、彼らは救い主であるイエス様を十字架につけます。しかし十字架を神様は偽善者を救う唯一の道となさいました。偽善者の受ける神さまの裁きをイエス様が身代わりとなって引き受けてくださいました。先祖たちの罪の報いも、これからイエス様の弟子たちを迫害する者たちの受ける報いもイエス様が引き受けてくださいました。今は主イエスを救い主として迎えることはできなくても、父なる神もイエス様も諦めておられません。偽善者たちを捨ててはいません。これからも何度も呼びかけ、救いへと招かれます。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」とイエス様を迎えることを願っておられます。厳しい裁きの言葉の中に、神様とイエス様の私たち罪人を救う激しい愛が語られています。

20201213日)

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