23~25章までイエス様の説教が続きます。これは山上の説教(5~7章)と対照になっています。山上の説教で「幸い」が語られたのに対して、ここでは「不幸」が語られます。不幸をもたらす罪として、イエス様が示されたのは「偽善」でした。律法学者とファリサイ派の人々が「偽善者」と呼ばれています。彼らは律法を守ることに熱心でした。信仰心を燃やしていました。しかし、その中で自覚なく「偽善」に陥り、やがて自分も人々も救いから遠ざけることとなったと、イエス様は厳しい言葉で指摘されました。山上の説教でイエス様は「誓ってはならない」と教えられました。神様に対して「はい」、「いいえ」のどちらかを答えなさいと教えられました。しかし、偽善者たちは誓うことで人々に自分の信仰の熱心さ見せると共に、実際に誓いが果たせなかった場合の逃げ道を用意することに熱心でした。また、律法の中で神様が求められる正義、慈悲、誠実はないがしろにして、人々が感心する高価な品の十分の一をささげることに熱心でした。彼らは本来見せびらかすことを目的としていたのではありませんでした。しかし偽善の罪が彼らを捕え、「幸い」ではなく「不幸」を選び取らせていました。どんなに信仰に熱心であってもそこから逃れることはできません。私たちもそうです。私たちを不幸に導く偽善からどうやって救われるのでしょうか。この罪にとらわれ、不幸の中で行き詰る私たちのもとに、罪を贖ってくださる救い主であるイエス様が来られ、十字架で神様の裁きである「不幸」を全て引き受けてくださいました。そこに救いがあります。
(2020年12月6日)
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