律法学者とファリサイ派へのイエス様の非難の言葉と読める箇所ですが、律法が明らかにした罪と救い主による救いへと思いを向けるように促す言葉です。22章までの律法学者やファリサイ派との問答が前提となっている言葉です。律法学者やファリサイ派は律法を伝える「モーセの座」に神様の御心によって着いています。律法は神様に由来するものですから、彼らが教える神の律法を軽んじてはいけません。しかし、彼らの行いを見習ってはならないと言われます。本来、律法は人を生かすためのものです。しかし、多くの掟の重荷を負わされた人は、律法を果たせない悩みの中で救いの希望を失います。しかし彼らを助けようとはしません。何故なら、彼らはモーセの座に着く自分たちを人に見せることに熱心となって、神を愛することと人を愛することを見失っているからです。この二つを失ってしまったら、他のどんな掟を果たしても意味がありません。これは律法学者やファリサイ派に限ったことではありません。律法の下では罪が明らかにされますが、そこに救いはありません。救いは「救い主」を通して与えられるからです。律法の下で、掟を重荷として罪にあえぐ時から、救い主を迎える時が来ています。これからは、十字架において律法を全うしてくださった「救い主」が唯一の先生であり、律法学者もファリサイ派も群衆も弟子も私たちも皆兄弟です。「父」として賛美されるのは、私たちに救いをお与えくださる天の父だけです。そして、神さまのみ前で兄弟として生きる私たちを教えてくださるのは、教師であるキリストお一人です。
(2020年11月22日)
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