2022年6月7日火曜日

マタイによる福音書24章36~44節

 キリストの再臨についての教えの続きです。キリストの再臨の日は、だれも知りません。天使も子であるキリストも知りません。ただ父なる神だけがご存知です。ですから、何年に世界の終わりが来る、というような予言は意味がありません。大事なのは、その日がいつかは分からないけれども、父なる神によって定められていることです。そして、キリストの再臨の時は、世の終わりではあっても、私たちの滅びの時ではありません。家の主人と泥棒の譬えは、家の主人が今の世の支配者である罪と死であり、泥棒が再び来られるイエス様のことを譬えています。今の世で私たちは、罪と死を主人とする家に囚われている奴隷です。しかし、そこにイエス様が来られて、罪と死から私たちを奪い返して自由と永遠の命を与えてくださいます。家の主人はこの泥棒であるイエス様に対抗できません。罪と死を主人としている私たちの世は永遠ではありません。ノアの洪水物語で、人々は自分たちの世が永遠に続くと思って、神さまを思わずに日々を重ねていました。しかし、人間の営みが明日を保障することはできません。それでは、私たち自身が営む日々に意味はないのでしょうか。そうではありません。目を覚ましていること、用意していることとは、何か特別なことではありません。この世で与えられている営みの中で重ねる日々が、神様の救いの完成に向けて進んでいることを信じることです。そして与えられる御言葉と聖霊の助けをいただいて、日々の生活を神様に思いを向け、祈り、生きることです。そのような日々の中に、突然イエス・キリストは再臨されます。

202127日)

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