「目を覚ましていなさい」とイエス様は教えられました。何故なら、イエス様の再臨の日は誰にも分からないからです。忠実な僕と悪い僕のたとえは、「目を覚ましている」ことについて、教えています。これらの僕は、特に教会について譬えていると言ってよいでしょう。教会は良い僕として、主人から委ねられた仕事を忠実に果たします。その仕事とは「時間通りに、食事を与える」ことです。それは、私たちを生かす、イエス様の命の御言葉を定められた礼拝において語り、聞く教会の姿を譬えています。教会は、イエス様から委ねられた御言葉を伝えることに忠実であることが求められています。それは、コロナ禍においても変わりません。礼拝堂に集まることを自粛しても、み言葉を届けることをやめません。Webを利用して、あるいはCDやプリントを配って、命の御言葉を絶やさずに届けています。何故なら、教会には主人であるイエス様がおられるからです。再臨の時まで、私たちに見ることはできなくても、イエス様は私たちの主であり続けられ、主として再臨されます。「主がおられる」ことを信じ、主に委ねられた務めに忠実であろうとすることが、「目を覚ましている」ことです。一方で、イエス様を見失う時、教会は悪い僕となってしまいます。主人の帰りは遅いと決めて、主人を侮り、仲間を傷つけ家を支配しようとします。どんなに熱心で、どんなに良い活動であっても、イエス様を見失った時に教会自身がイエス様の家を奪い取る強盗のようになってしまいます。その時、教会はイエス様ご自身によって厳しく罰せられます。
(2021年2月14日)
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