神殿の境内で教えを語られるイエス様のもとに、神殿の責任者である大祭司と民の長老たちがやってきて問いただしました。「何の権威でこのようなことをしているのか。」イエス様の権威について、マタイ福音書は何度か言及しています。イエス様の権威についての答えは既に福音書の中で示されてきました。イエス様の御業は救い主である神の子の権威で行われています。そこで、イエス様は逆に大祭司らに問いかけます。それに対する彼らの答えが、彼らの権威が何によっているかを明らかにします。彼らは洗礼者ヨハネの洗礼について問われた時、気にしていたのは群衆の評価でした。彼らは群衆を恐れていました。本来、大祭司の務めは神様によって与えられたものです。彼らの権威は、神様の務めに召されていることにあります。しかし、彼らの思いは神様に向けられていません。ここに、神殿を「祈りの家」とせず、「強盗の巣」にしている者たちの姿が現れてきます。彼らは神様に心を向けていないのに、神殿を自分たちのものであるかのように支配し、祈りの家の権威の源を自任しているのです。そのような彼らに、イエス様は気付いてほしいのです。彼らは、もともと神様によって選ばれた民であり、神様によって委ねられた権威を与えられていたはずなのに、今は神様ではなく、群衆を恐れ、神様をないがしろにしています。だから悔い改めて、「祈りの家」の本当の権威をもつ神様のもとへ、悔い改めの祈りをもって立ち帰って欲しいのです。そのためにもイエス様は十字架の道を進まれるのです。
(2020年9月13日)
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