2021年8月10日火曜日

マタイによる福音書4章12~17節

主イエスが宣教を始められたガリラヤ地方は、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれています。外国ではありません。そこに住む人々が、ユダヤ人でありながら異邦人と交わり、神さまに心を向けない有様をまるで異邦人、神を知らない民のようだと言われていたのです。わたしたちも神さまを気にしないで生きています。神さまを知っている人でも、世の中で生活している時に、神さまのことなど忘れていることが多いものです。「異邦人のガリラヤ」と「わたしたちの生活」は重なりあうことが多くあります。ガリラヤの人々は特別に裕福ではありませんでした。しかし、食うに困るような貧困でもありませんでした。日々の生活の小さな幸と不幸で心がいっぱいだったのです。そのような時こそ、私たちは一番神さまから遠ざかっているのです。そして、神さまから遠ざかっているところで待ち受けているのは罪の暗闇です。その姿を「暗闇に住む民」と預言者は表現しました。実はそんな時、人は最も神さまを遠ざけて生きているのです。だからこそ、主イエスはその人々に向かって、天の国、すなわち神さま御自身が近くにいることを宣言されました。神のない暗闇を当たり前のように生きている人々に、神さまの方から近づかれます。それは、神さまを無視した生き方を裁くためではありません。滅ぼすためではありません。まことの天の父として、愛する子を探し求める父として、神さまが私たちに呼びかけられるのです。それは愛の声です。神さまに背を向け、暗闇に向かっていく子を呼び止め、お前の顔を見たいと願っておられる天の父の愛の声です。主イエスの御言葉と御業は、父なる神さまの招きの言葉を伝えることでした。

(2017年8月20日)

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