「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」この祈りから、主の祈りは後半の「わたしたちのため」の祈りとなると言われます。ここから始まる後半が私たちのための祈りだとすると、前半は何の祈りだったでしょうか。「神さまのため」の祈りというのは、おかしいでしょう。神さまこそが祈りを聴き、願いに良いものを与えてくださる方だからです。前半は、わたしたちにとって神さまが常に、「父なる神」として臨んでくださることを願う祈りです。前半の祈りに支えられて、後半の願いが成り立ちます。必要な糧とは、直接には「パン」のことです。本当に基本的な当たり前の食事です。こんな些細なことまで神さまにお願いするのかと思うかもしれません。しかし、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を与えてくださる神さまの「父」としての愛が無ければ私たちの「当たり前」は成り立たないのです。子が父に「お腹空いた!」と訴えるように、私たちは生活のどんなことも神さまを父と信頼して願います。その時、「今日」と祈りなさいと教えられます。明日の不安を抱えて、思い悩んで、明日のための備えを今日願うのではありません。また、今日を生きるのは、昨日貯えた「富」によるのでなく「今日与えてください」という祈りにお答えくださる父なる神によって生きるのです。しかも、これは「わたし」を生かすだけでなく、「わたしたち」、つまり隣人と共に生きることを願う祈りです。神の子にこそ許された大切な祈りなのです。
(2018年6月3日)
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