2021年8月10日火曜日

マタイによる福音書3章1~12節

 福音書は、それぞれ強調点は異なりますが、洗礼者ヨハネを、救い主をお迎えするために道を備える者として預言されていた人物であると紹介しています。マタイ福音書はヨハネのメッセージの中でも特に「悔い改め」に焦点をあてています。悔い改めは、日本人一般の感覚ですと、自ら心を入れ替えてこれからは行いを正しくしていこうという誓いのようなものと考えられます。しかし、聖書の中で「悔い改め」と翻訳される事柄は、「心もからだも一切を神さまの方へと向きを変えること」を意味しています。それは、一切を神さまに向けることで、自分を神さまにお任せし、神さまの支配とさばきに自分をあずけてしまうことを意味します。そこには、自分で何とかしようという意味はありません。ここが大切な点です。しかし、一切を神さまに向けてしまうということは、最も隠しておきたい「罪」を神さまの前に告白することでもあります。神さまは義なる方です。その方に罪を知られたならば、恐ろしいさばきがあることでしょう。そこで洗礼者ヨハネは告げたのです。「わたしは、悔い改めを導くために、あなたがたに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」後から来る方とは主イエス・キリストのことです。洗礼者ヨハネは悔い改めを迫りましたが、罪を解決することはできません。神さまの憐みにお任せする他ないのです。主イエスは、神さまの愛と憐みそのものである方です。この方が十字架で私たちの罪のさばきを身代わりとして受けてくださることで、罪を解決して神さまの救いを与えてくださるのです。この救い主を与えてくださった神さまを信じて一切をお任せしなさいと洗礼者ヨハネは告げたのです。

(2017年7月23日)

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