マタイ福音書1~2章の伝えるクリスマスの記事は、様々な意味で「誕生」を語っています。ヨセフや占星術の学者たちは神さまを失った生き方から、「神は我々と共におられる」という信仰の従順に生きる者となりました。教会では洗礼を受けて信仰に入ることを新しく生まれるという意味で、「新生」と呼ぶことがあります。同じ意味で、ヨセフも占星術の学者たちも新しい「神の民」として生まれたと言ってよいでしょう。私たちがいつものクリスマスで聞くのはおそらくここまでの話しです。しかしマタイ福音書は、もう一つの「誕生」を語ります。それはヨセフたちの「新生」とは正反対に、それまでの自分自身を守り続けるために、救い主に対する「殺意」がこの世に生まれたのです。ヘロデ王はあくまでその代表です。救い主を迎えて新しく神さまと共に生きる姿と、救い主を拒絶して神さまを抹殺しようとする姿とが、この世に姿を現したのです。この間に中間点はありません。主イエスの誕生は、私たちをそのどちらに生きる者となるのかを問うものだったのです。しかし、この主イエスに対する「殺意」に集中していく罪こそ、実は救い主が十字架で担ってくださった罪そのものなのです。やがてこの殺意は主イエスを「十字架につけろ!」という叫びとして人々を虜にしていきます。しかし、その叫びの中で主イエスが十字架の上で、この罪に対するさばきを受けてくださったことで、私たちに救いが与えられたのです。
(2017年7月16日)
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