2021年8月18日水曜日

マタイによる福音書5章27~30節

 「姦淫するな」という掟は律法の中でも特に重要な十戒にある掟です。この掟から、主イエスは神さまの罪に対する厳格な姿勢を教えられます。神さまは私たちの心の中までご存知です。ですから、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われるのは、神さまは既にその時に罪を見つけておられるということです。罪とはそれほどに素早く私たちを捕らえ、更に深く重い罪へと私たちを引きずっていきます。そして、罪に対する神さまの裁きは「死」です。地獄に投げ込まれるのだと言われています。主イエスにより神さまが罪を赦してくださるというのは本当です。しかし、それは神さまにとって罪が軽々しく扱われるということではありません。神さまこそ罪に対する最も厳格で恐るべき裁き主です。だから目をえぐり出し、手を切り落としてでも罪の原因を徹底的に取り除かなくてはいけません。しかしそうであるならば、私たちには何が残るのでしょうか。目だけ、手だけではすみません。むしろ天の国に相応しい部分は、心にも体にもないのです。罪に対する神の裁きの追及は徹底的なのです。この恐ろしい罪に対する神さまの裁きを身代わりとなって受けてくださったのが主イエスの十字架でした。主イエスが私たちに代わってご自身の目を、手を、全身を死に渡してくださったのです。罪に対する神さまの裁きの恐ろしさを知るほど、主イエスの十字架の救いが本当にあり得ない大きな恵み、救いの御業であることを知らされます。

201824日)

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