2021年8月18日水曜日

マタイによる福音書5章25~26節

 和解を教えておられる主イエスの言葉の後半は、こちらが一方的に相手に対して負い目を持っている時に、早く和解することを教えています。その時の和解とは、「赦し」を求めるということでしょうが、どんなに必死に、誠実に、正しく赦しを求めても、赦してもらえなければ和解はあり得ません。どんなに負い目を持つ者が立派な人間になろうと、正しく生きていようと、赦してもらわなければ意味がありません。その時に、こんなに必死に赦しを願っているのに、こんなに正しく生きているのに何で赦してくれないんだ、と恨んでも何の救いもありません。むしろそんな言い方は「義」から遠ざかることになるでしょう。訴える側の憐れみによる他ない和解、それがこの前の箇所の「兄弟との仲直り」との決定的な違いです。しかしだからこそ、この和解を得るための「義」の道を間違えてはいけないのです。主イエスは罪の負い目を持つ私たちの救いのために来てくださいました。私たちの罪の負い目を十字架で引き受けてくださり、私たちに神さまとの和解を与えてくださいました。負い目の一切を神さまは主イエスによって赦してくださいます。それを知ったならば、躊躇っている場合ではないのです。終わりの裁きが定まる前に、愛と憐れみによって差し伸べられた神さまからの和解を感謝していただき、滅びから命へと移されること、この他に「義」の道はないのです。

2018121日)

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