律法学者やファリサイ派の義にまさる義、天の国に入るため、神の子として神さまに受け入れていただくための教えの最後です。「隣人を愛し、敵を憎め」という掟は、旧約聖書には出てきません。「隣人を愛せ」という律法はありますが、「敵を憎め」という律法はありません。同胞であるユダヤ人を愛し、敵対する神を知らない異邦人を憎めという意味であろうと思います。ルカ福音書に「良きサマリヤ人の譬え」が出てきます。この譬えのきっかけとなったのは、「隣人とは誰ですか」という問いかけでした。私たちは際限なく愛することはできない。だから、愛する対象を絞らなければならない。その線引きが「隣人」でした。しかし、主イエスは「敵を愛せ」と言われます。神さまの御心は敵であっても「隣人」なのだから愛することを望んでおられるのです。迫害する者のために祈ることを願っておられるのです。しかし、そんなことはとてもできないと思います。この主イエスの命じられる「敵を愛せ」という言葉に、多くの人がつまずきました。それは、福音の理解に大きな間違いがあるからです。大事なのは「敵を愛せ」という律法を成し遂げられたのは、私たちでも、律法学者やファリサイ派でもなく、主イエス・キリストだけだという十字架の事実です。主イエスが十字架で敵を赦し、救いを祈ってくださったときに、「天の父の子となるため」の唯一の義である愛を全うしてくださいました。敵を愛さなければ天の国に入れません。しかし、私たちは愛し抜けません。だから、主イエスが愛し抜いてくださり、天の国の門を私たちのために開いてくださったのです。これが福音です。
(2018年3月11日)
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