「心の清い人」というのは、幼い子どものような純真さを保っている人と考えてしまいます。しかし聖書は、子どもは清いということは言っていません。むしろ、聖書は子どもであっても主イエスの十字架の贖いの救いを必要とする罪人であることを知らせます。それでは、心が清いとはどういうことでしょうか。それは、真っすぐに神さまを求め、見上げる心ということです。澄んでいるというよりも、二心を持たないと言う方が意味としては近いと思います。神さまを思いながら、同時にこの世のことに心を遣うようなことをしないということです。神と人とに兼ね仕えるような心ではない、ということです。しかし私たちは、そのような清さに生きることはできません。だから、神さまを見上げること、神さまに見つめられることは私たちの中に恐れを生み出します。罪の汚れを神さまに曝すことだからです。神を見ることは幸いどころか、罪人である私たちにとっては本来恐ろしいことなのです。しかし、主イエスはそれを「幸い」としてくださいます。私たちの罪を担ってくださり、本当の「心の清さ」をもって十字架の上で父なる神に私たちの罪の赦しを願ってくださった方が、主イエスです。神さまは心の清くない者を裁き滅ぼされることを願う方ではなく、そのような私たちのために独り子である主イエスを与えてくださり、一人も滅びないように受け入れてくださる神なのです。
(2017年11月5日)
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