「憐れみ深い人々」というのは、「かわいそうだ」と同情する心の深い人のことです。そうすると私たちは誰もがそういった心を持っているものです。しかし、これを言われたのが主イエスであることが大切です。主イエスの憐れみの深さは、時にはらわたが痛むほどであり、憤りを覚えるほどに激しい「憐れみ」でした。その憐れみが具体的に問われたのは、悲しむ人や苦しむ人を前にした時だけの「憐れみ」ではありません。それどころか、何の役にも立たない人、自分に対して罪を犯した人に向かって憐れみをもって「赦す」ことが、ここで問われる「憐れみ深い人」の具体的な姿です。主イエスはそのことを神さまの私たち罪人に対する「憐れみの赦し」として、後にマタイ福音書の18章のたとえ話を通して教えてくださいます。しかし、そうなると幸いをいただくことに値する「憐れみ深さ」は到底私たちが実現できるものではありません。それでは、私たちへの「憐れみ」という神さまの幸いはいただけないのでしょうか。そうではありませんでした。この幸いを約束してくださった主イエスは、その実現のためにこの世で唯一、「憐れみ深い」赦しを実現してくださった救い主でした。十字架の上で、私たちを憐れみ、罪を代わりに負って死んでくださいました。そして「憐れみ深い」者へと与えられる幸いである神さまの憐れみによる赦しを私たちに与えてくださったのです。
(2017年10月22日)
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