イエス様は「義に飢え渇く人は幸いだ」と言われました。この言葉を「正しいことを求める人は…」と読み替えると分かるように感じます。誰でも、間違うよりは正しい方がいいでしょう。しかし、ここでイエス様は「義」と言われているのです。この「義」は神さまの「義」です。しかも、「飢え渇く」ように求めているのです。それが無ければ死んでしまうというほどの逼迫した求め方です。「義に飢え渇く」ということで思い起こしたいのは詩編42編です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」(2節)。まさにこれがここで言われていることです。神さまの義なる裁きを飢え渇くほどに求めている人です。世の支配に苦しめられ、世の不正に嘆き、世の争いに苦しむとき、「一体、神はどこにおられるのか、神の正しさはこの世のどこにあるのか」と、嘆く人々です。神を知らない人々から、「お前の神はどこにいる」とののしられながら、なお神を求める人々です。その人々に、主イエスは幸いを約束されます。あなたがたは満たされる。神御自身によって満たしていただけるのだ、と。主イエス御自身が「義に飢え渇く人」として、十字架の上で「わが神、どうして私をお見捨てになったのか」、と叫ばれました。そして私たちに神さまとの関りを取り戻してくださいました。復活され、天に昇られて後、弟子たちが受けたのは、神御自身である「聖霊」でした。今も聖霊なる神が、私たちの中を満たしてくださいます。
(2017年10月15日)
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