マタイ福音書が記す主イエスの教えの第一声は「幸いである」でした。これは本当に恵み深い言葉です。マタイによる福音書が伝え聞いた主イエスのお言葉の中から、祈り、考え抜き、主イエスという方のことを伝えるのに最善であると選び抜いた言葉が、私たちに罪人に呼びかけられた「幸いである」という言葉でした。この言葉から始まる山上の説教を語られた主イエスが目にした人々は、日々の生活の満足の中で神さまを失った、みじめな貧しい心の人々でした。褒められた人々ではありません。むしろ罪人です。神なき暗闇と死の影にいるような人々です。しかし、神さまの独り子は、それらの人々を裁かれたのではありませんでした。「こうなればいい」、「こうすればいい」と教えられたのでもありませんでした。あなたがたは今や「幸いな者」と呼ばれるのだ、と宣言してくださったのです。どうしてでしょうか。「貧しい」というのは、どうしようもない状態を意味する言葉です。貧しいけれども神を求める純粋さがあるのだとかいうことではありません。罪深さにおいて神を失っているのですから、救いようがない状態です。気休めが一切入り込めないような、本当に何もない状態が「貧しい」ということです。この神無き貧しさの極み、罪深さの闇の中にいるのが、神の子がご覧になった私たち人間の真実の姿でした。しかし、今やこの罪の中に、闇の中に神さま御自身が到来されます。裁くためではなく、神を見失った人々を神さまが見出し、天の国に迎えてくださるのです。
(2017年9月17日)
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