「悲しむ人」とは「無くして悲しむ人」です。それは究極的には「死」によって愛する者を失った悲しみを指しています。愛する者を死によって失った人を慰めてくださった主イエスの物語が福音書にいくつも記されています。娘を失った会堂長ヤイロの物語、一人息子を失ったやもめの物語、そしてラザロを失ったマルタとマリアの姉妹の物語などです。いずれの場合も主イエスは死の喪失の悲しみの中にいる人々に憤りを覚えるほどの深い憐れみを覚えられ、「死」を打ち破って人々を死から取り戻してくださいました。これらの人々の他にも、主イエスによって死から復活させられた人々が多くいたことが福音書を読むと推測できます。死によってもたらされる悲しみは、死に対する勝利しかありません。すなわち、ここで語られている悲しむ人の幸いとなる慰めとは、「復活」のことです。ここで「慰められる」というのは、「傍らに呼ばれる」という意味の言葉です。救い主のもたらされる福音とは、十字架であり復活の傍らに招かれることが慰めなのです。十字架が私たちの罪を贖う救いの御業であり、復活は罪の故にもたらされた「死」への勝利です。悲しんでいる者たちは主イエスの傍らに呼ばれ、主イエスのなさって下さったことを知らされ、信仰を与えられ、罪赦され、復活の希望に生きることができるのです。そこで「悲しむ人々は幸い」なのです。
(2017年10月1日)
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