2021年8月19日木曜日

マタイによる福音書6章14~15節

 主の祈りに続いてマタイ福音書は赦しについての御言葉を記しています。もし私たちが過ちを赦すなら、父(神)もお赦しになるが、もし赦さないなら、父(神)も赦さない、と言われます。多くのキリスト者が、まず神がキリストの十字架によって私たちの罪を赦してくださり、その赦しの恵みの中で私たちも隣人の過ちを赦そう、と理解しています。これは間違った理解ではありません。しかし「赦す」ことはキリスト者の努力目標ではありません。「赦すべき」責任があるのです。キリストの十字架によって父なる神から罪の赦しをいただいたキリスト者は赦さなければならないのです。キリスト者はこの世の誰よりも真剣に「赦し」に取り組むのです。罪を指摘すること、非難すること、評価することは、赦すことに比べたら簡単なことです。赦すことは難しく、目を背けておきたいですし、父なる神さまの前で見栄えのいい自分を見ていただきたいと思うかもしれません。しかしそれは祈りの姿勢としては不十分です。赦しは私と隣人の間だけで始まるのではありません。本当の赦しはそこに父なる神さまをお迎えして、祈りにおいて赦せない自分の心を神さまに知っていただき、父なる神さまと共に赦しを始めるのです。そのように父なる神を信頼することが祈る姿勢です。本当に難しいことであり、時に自分ではどうにもならない「赦し」の実現を父なる神と共に始めるのです。

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